父
食欲がわかなかったので朝食は抜いて、あとは書を読んだり、庭を眺めたり。今日は特にすることが無いですね。贅沢な悩みではあるのですが。
動かないと、寒いです。朝夕も急に冷え込んできました。あっと言う間に手足が冷えてかないません。着物って、袖に糸を通して絞ったらだめなのでしょうか。
「…ま、-め様」
駄目でしょうね。残念です。重ね着していてもすーすーします。
「聞いておられますか?」
「…いえ」
そうでした、今日は珍しく母屋からの客人がいらしたのでした。母屋の女中さんです。雰囲気からして上の立場に居そうですね。でもって、その視線ぐさっときます。何の話でしたっけ。あぁ、そう、睨まないで下さいよすみません悪いのは私です。
「旦那様がお呼びです」
そうでした。
◆ ◆ ◆
女中さんを先に返して、髪や着物を整えます。まぁ、見苦しいほどでもないし、無難なところですかね。さて、こっからが遠い。下駄を履きまして離れを出、石階段を上って、草道を進めばようやくまともな道に出ます。そして屋敷の壁伝いに歩けば隠れるような裏口がありまして。ややこしいですね。裏口から入ればすぐ、先ほどの女中さんが出迎えてくれました。
「西の間にて、旦那様がお待ちになっております」
女中さんの案内で着いた襖の前に座しました。来訪を告げると、了解の応え。
「失礼致します」
部屋の奥、上座に座った中年男性が一人。改めてお会いするのは久々です角張った輪郭に鋭い目つき。あれ、以前見たときより皺の数が増えてますね。旦那様というのは、つまりはこのお屋敷の主人で今の私の父親に当たります。
「来たな」
重低音。体が硬直した。
冷たくて、重くて、暗くて、固くて。
私は何も言われていません。
私は何もされていません。
けど、
何も言っていないわけじゃない。
何もしていないわけじゃない。
あぁ、たった一言で足が動かない。
固まっている私の手をくん、と女中さんが少しだけ引く。無音が言う。歩け、と。
そう、
そう、ですね。
正面からの視線。温度を感じない、とは本当です。私への敵意か、警戒でしょうか。何れにしても、私、足が震えちゃっていますね。辛うじて息を吸っていて、しかし段々、全身が、震えてきて。それでも、歩かなければならないのです。女中さんが何度もこちらを見て下さいます。ここは腹をくくって、足を前に、出し、て。あとはもう、何も見ずに歩くだけです。指定された畳に座って、一呼吸。
「久しいな」
「さようですかねぇ」
実際そうですけど。一応はぐらかしておきます。大丈夫、自分は今、笑えてます。そんな私の浅慮なんて父はお見通しのようでしょうけど。
「息災か?」
「お陰様でつつがなく」
「それは何より」
要件は何でしょうね。こちらから促すわけには参りませんが、さっさと帰りたいです。何を企み何を望んでいるのか、なんて私には分かりませんけど。
「さて、」
父が私を見
「そなたに縁談ぞ」
嗤った。
◆ ◆ ◆
離れに戻ってから、いつものように縁側に腰掛けました。先ほど女中さんが置いてくださった白湯は、きっと冷め切っていることでしょう。
ろくなことは考えてない、とは思っていました。あの人が私を母屋に呼び出すなんてこと、滅多にありませんから。それにしても縁談、ですか。いったい何を企らんでいるのでしょう。良縁ならば私ではなく、母屋に住む妹を向かわせればいい。危険のある家なのか、質扱いか。後者、っぽいです。
さて、さて、どうしましょうか。
そんなことを考えていたから、ですか。嫌な音と指に痛みが走りました。
気を静めようと、叩きつけるように弾いてしまった三味線。ぎん、と不気味な音がしたのです。前から、糸が白色化して気になっていたところに限界を迎えたようです。馬鹿ですね。音で発散させようとするなんて。見ればぶっつりと、切れていました。勢いに跳ね返った糸が棹を持った指にあたったようです。人差し指に血がにじんで、痛くて、熱いですね。
予備の糸、ありましたっけ。