あたたかい
散歩、というか、杖を使って庭に出ただけなのですが。まだ長い距離は歩けないらしいです(それでも歩けるまで回復したことにびっくりですけど)杖が石畳をこつこつとゆっくり叩いていきます。何時の間にやら杖歩行の練習をしたようで、誰の手も借りずに離れから庭に下りていきました。こわごわと背中を見守っていましたけど、大丈夫そうです。どんだけ急いでリハビリしたのですか。
「冷えるねぇ」
「そうですね」
確かにまだ肌寒いです。日が昇っている時間でも、風が吹けば冷え込みます。離れから急いで羽織をとってきました。そういえば、彼は真冬の夜でも着流し一枚で歩いていましたが、体感がなかったせいですね。感慨深げに羽織を着ている彼を見てそう思います。でも、着流しはやっぱり墨黒色です。相変わらず素地は黒いし帯は派手な紅です。でも、いつも足側に描かれてあった彼岸花はありません。それが何だか喜ばしく思うのです。
「こういう庭、だったのですね」
「そういや、前は夜中だったかい」
「帰るときもまともに見ていませんでしたよ」
叩き起こされ寝ぼけ頭で帰ったので。
殺風景な庭…というか、ちょっとした無法地帯です。草木も伸び放題みたいで。
「庭師、もう来られるのではないですか」
この離れはもう、閉ざされていないのですから。そう言えば彼はじっくりと私の顔を眺め、にやりと笑った。何ですか、その反応。
「お前さんとこの庭みたいでいいじゃないか」
「…ここまでじゃ、ないですよ」
おそらく。気が向いた時ですけど、ちょこちょこ手入れはしていますし。最近さぼり気味でしたけど。そんな感じのことを言えば何故か彼はくつくつと笑いました。相変わらずですねその笑い方。
「まぁ、そのうち」
物凄く適当に誤魔化されました。そうしているうちに、池に着きました。石で囲まれた人口の庭池です。彼は池淵にある大きめの石に座ろうとしました。ちょっと待った。
「体冷やしますから!」
病み上がりという自覚があるのですかこの人。手拭を石においてさぁ、どうぞ。と見れば。先よりも体を震わせて爆笑するのを堪えていました。何ですか、またやらかしましたか私。思わず半目になります。
「お前さん、本当に…あっしの体にしか興味ないのかい」
「やめてください、その卑猥な感じ」
「いや、石に座ることは止めないのだねぇ」
「疲れたから休みたい、のでは?」
あ、だめだ。何言っても笑われることがわかった。
一応、言いたいことはわかりますよ。多分、彼ほどの身分だったら敷物のない地面に座ることすらアウトなんじゃないか、とか。でも、座りたいなら座ればいいじゃないですか。そもそも体力戻りきってないはずですし、往復はきついと思いますし。というか、私と父(離れに引っ込んでますし)しかいないのだからいいじゃないですか、適当で。ふさ江さんが聞いたら絶対怒られることをつらつらと考えていると、眉間にしわができたらしいですね。不意打ちで額に骨ばった指があたって、咄嗟に目を閉じた(これでも前よりちょっと肉付きよくなりましたよ)
「だから、お前さんがいいのさ」
何ですと。不穏な響きに目を開ければ、予想に反して至近距離から覗きこまれていました。間近で見る、嫌な感じの笑み。
「企みですか」
「願いだよ」
彼が、結局手拭を私に放り投げて直に腰かけた。何時も見上げていた彼の顔が、ちょうど私と同じ高さになる。身長差が、子ども扱いのようで悔しいですね。なんて、考えていたからでしょうか。放り込まれた爆弾に、反応できたなかったのは。
「近々、お前さんはこっち来な。あっしの、まぁいわゆる妃として」
「…へ?」
住み込みは予想していましたけど、可笑しい単語が混じっていませんでしたか、今。妃、て偉い人の奥様ですよね。私が?この人に?嫁ぐ?あれ、入内はお断りしたはずじゃ…あ、違う。それはこの人の父親で。というか、そもそもなぜそんな話になったのですか。とかとか考えていたら、頬を抓られた。
「いひゃい」(いたい)
だから手加減をしてくださいと、前にも…ありましたね、同じようなことが。彼が抓った頬を少し揺らした。余計に痛いですから!なのに、抵抗できないし逃げられない。
「ごちゃごちゃと考えているねェ。お前さんでもわかりやすく言ってやったというのに。何きょとんとした間抜け面晒しているんだい」
「ひ、ひほい」(ひどい)
顔が解放されました。でも、彼の手は離れませんでした。ひりひりする頬に、骨ばった手が添えられる。強引に目が合わせられた。青灰色だった瞳が、今は普通の黒色であることに気付きます。あぁ、彼は。人になったのです。あえて考えないようにしていましたけど、身分も柵のある人に。人を従える人に。
私が何も言えないと、彼にふかーくため息をつかれました。
「なら、あっしが他の女娶ってもよいと?」
「何ですか、その妙な自信」
「ないさ」
間を入れさせぬ否定の言葉。
「だから言ったろう。願いだ、と」
その言い方は卑怯というものです。いろいろすっ飛ばしていませんか、結婚って。戸惑ってしまうのは私が“あちら”の人間だからですか。何だか、久しぶりに自分が“こちら”の人間でないことを思い出しました。こんな、不安定な私を娶るというのですか。でも、“あちら”のことを忘れていた私、今の話に嫌だと感じなかった私。あぁ、もう。
「言葉を、求めてよろしいでしょうか。私、鈍いですから」
勝気な言葉と裏腹に、彼の顔が見られない。俯けば声が降ってきた。
「必要かい?」
冷静な声。冷たいとも言う。笑い含みすら無いから余計に顔があげられない。言うんじゃなかった。こっち方面ド素人が、より取り見取りの皇子様に勝てるわけない。というか勝負にすらならない。あれ、勝負でしたっけ。ちょっと、息を吸って、吐く。変に入った肩の力も一緒に吐き捨てた。次いでぐっと頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。いったん失礼いたします」
忘れちゃいけない。彼は私が思っていた鬼でも、遊び人でもない。立場ある、まさしく雲上人。私の言葉一つで私だけじゃない。父、母、妹、ふさ江さんたちの今後が決まる。婚姻も、話が出たなら父が決めることでしょう。私が今、彼にどうこう言う必要は、ない。
言葉通りに彼に背中を向ける。帰りは杖があるだろうし大丈夫で、しょ、う?
バランスが、崩れた。手首を引っ張られて。
「あ、れ?」
ぱしゃん、という音がした。布が水面に落ちる音。羽織がずれ落ちたらしい。どうして。倒れこんだ先は地面でも石でも池でもなく、暖かくて。
無言
抱え込まれている、のはわかる。背中に温もりがあって、私の帯にも人の腕が廻って。
硬直
「そんな態度を、とってほしいわけじゃない」
絞り出すような声。振り返ろうとしたら、目を塞がれました。多分掌。でも、一瞬見えた顔は、いつもよりほんのりと。その、血色が良い気がしました。
「お前さんが…あいが、いい」
それはあんまりです。その日、その体勢、そのタイミングでそれですか、なんて。思ったのは後日のことでした。でも、今は。ただ、目が熱い。
「もう、消えないで、ください」
彼に、遮られなかった。言わせてくれたのが、聞いてくれたのが、その時はひたすら嬉しかった。ぎゅ、と全身がさらに締め付けられた。あたたかい。ちゃんと、生きている。泣けるくらいに、あたたかい。
「置いていかれるのはもう、もう、嫌なのです。我儘です。立場とかいろいろ考えなきゃいけないのに。でも、そんな風に言われたら、私、言っちゃうじゃないですか」
声が、震える。
「言っちゃいけない、想っちゃいけないと。我慢、しようと、思ったのです。これでも。でも、でも」
前にある、袖を。痛いくらいに握った。
「あなたの傍に、いたい」
ぎり、と。私の後ろで歯が食いしばる音。
「焦がれて焦がれて、仕方ないんだよ」
まるで、血反吐を吐くように彼は、言った。言ってくれた。もう、十分な気がした。なのに、私の体は180度回転させられ、また黒い着物で覆われた。
「今更、離れる何ざ、言わせらんねェし、言わせねェ」
彼の肩口に顔を押し付けられて。息が止まった。
◇ ◇ ◇
今更ですが、離れには父がいるわけで。
あの父のことですからこっそり様子を伺ってそうですね、とか。嫌な予感を口にしてみたら彼は笑った。私の髪が、彼の指に梳かれる。何度も。
「都合の良いことに、あっしもお前さんの周りも既に賛同してるぜ。その方が、面倒が少なくて良いだろう?」
確かに、そうですけど。
「何でしょう、この、すでに外堀が埋められている感じ」
「完全に埋まってらァよ」
嬉しい、はずなのに。恥ずかしいし逃げたい。沸いていた頭も落ち着いて、今の体勢も恥ずかしくなってきましたよ。体を離す。真正面から彼を見据えて、せめてちょっと反抗してみました。このままだと、何だかんだで彼の思い通りになっている気がして。
「そもそも、私、あなたの名前を知りません」
前みたいに“名前に大した意味はない”と言って教えてもらえないと思っていました。だけど、彼は何も言わず私の方へ手を伸ばしました。また頬を摘ままれると思って咄嗟に目を閉じます。人肌が触れました。なのに、痛くありません。掌が頬を包んで、口を親指がなぞりました。何事?
目を開ければ、彼は見たことない表情をしていました。
「あいに呼ばれるなら、悪かねェな」
停止