人だからこそ
ふと、思うのです。説明できるのです。彼が急にあらわれ急に消えた理由。
私は“こちら”がファンタジーの世界で彼が人でない存在だからだと思っていました。妖怪の類で、鬼ではないかと。会ったばかりのころ、恐る恐る人か、と尋ねた時、彼は否定した。鬼ですか、と問えば彼は否定しなかった。
私が須黒と呼ぶ前、鬼さんと彼を呼んでいました。でも、鬼ではなかった。
生成、というのは柏木さんいわく鬼になりかけている人だそうで。
彼は人として、(辛うじてであっても)生きていた。
幽体離脱とやら、だったのでしょう。
そして身体の情報は魂(須黒)に影響されていないのでしょう。だから、須黒は立っている。でも、本当なら、彼は立てる状況じゃないはずです。
「来い、なんて言ってないよ」
「来るな、とも言われていません」
ぐっと相手が言葉に詰まる音。
「それに、私行かないとは言っていません」
「行く、とも言ってないだろうさ」
お互い顔が見えない状況で、少し笑ってしまう。
「お前さんは、本当に」
締め付けが強くなる。
あの、少し息苦しいのですが。
「どうして、そう、なんだろうね」
わーお、なんだか全否定された気分です。
なんて思っていたら、急に体の支えがなくなった。
体勢が崩れた。ふらついてそのまま倒れ込み激突。激痛。いたい。
「く、クリティカルヒット、痛恨の一撃です」
ぶつけたせいで目隠しがずれました。
どうやら近くの石に頭をぶつけたみたいです。
咄嗟に手をついていなければ…考えないようにしましょう。
須黒は、いない。消えた。彼が消えるのはいつものこと。でも。
「須黒…?」
読んでみました。応答はありません。何だか嫌な消え方です。
今までと違う。
ここはあの真っ黒道の奥、なのでしょうね。入る前は見えなかった建物が見えます。そして、建物に絡みつく糸も。まるで蛇がとぐろを巻いてるかのように隙間ない。
呪詛を唱えたあの女性から続く糸の、間違えられた終着点。
あそこに、彼がいるのでしょうか。
階段を数段飛ばして駆け上り、ぼろぼろの障子を勢いよく開こうとして。
「およ、し」
止まれたのは、反射です。
「開け、んな。その、まんま。帰んな」
聞いたことない、かすれた弱弱しい声。さっきと違います。
久々に音を発したような、ガラガラ声。
人としての彼が、向こうにいる。
「ずるい、ですよう」
「あっしは、呼んぢまった、かねぇ」
「でなかったら、来れませんよ」
障子越しでも、金臭い匂いを感じます。鬼ではない。人だからこその匂い。
誰も入れなかったのなら。
(本当の名前すら知らない) “彼”が動けなかったのなら。
「お手伝い、させて下さい」
「…怒る…ぜ」
「怒ってください」
障子を開ける。異臭が一段と強くなった。
埃の溜まった薄暗い和室で、布団が一組。洗濯されていないようで、染みついた汚れがここからでも見える。そして、布団の中には。
男性がいた。
形は人、でした。角も生えていません。
乾いた皮膚、骨ばった体に落ち窪んだ瞳、黒髪はべったりと頭に張り付く。
彼は気まずそうに私から目をそらしました。
その顔は、私の知っている彼です。
「見る…もんじゃ、ねぇさ」
「見なきゃできません」
布団の傍に膝をつく。
「…何を」
「まずは体を拭きましょう。顔も洗って歯磨きして。
そして部屋を掃除して空気を入れ替え、布団も洗って日にあてて。
すっきりさっぱりしたら、お白湯を飲んで、お粥も食べてみて。
やること、一杯です」
「そいつあ、大変、だ」
薄く薄く、彼は笑った。自嘲するように。
唐突に笑みを掻き消して、彼はじ、と目を合わせる。
「戻る、つもりは…なかった」
「…何となく、そんな気がしました」
人でありたいなら、名づけを拒否すればできたこと。彼は人でない事を否定しなかった。彼のせいではないのに。父親の騒動に巻き込まれ呪詛を受けただけなのに。
でも、何も思わなかったわけじゃないはずです。
でなければ、橘 至時の“(私が)人でなければ(祓えばいいのだから)話は簡単だったろう”という言葉に、あんな激高しないじゃないですか。
「許さねぇ、よ」
消えようとした彼を呼びもどした。
人で無くなり、鬼に成りかけた彼を人の身に戻した。
後悔、はちょっとしてます。彼の鋭い視線に射抜かれていると居たたまれない気分になります(むしろ怖いです)でも、もしやり直せたら、結局私は同じ選択をすると思うのです。そしてまた睨まれて、ビビりまくっていると思うのです。なので。
「私も」
やつれ果てた頬に手を添える。
「謝りません、よ」
ぶつり、と音がした。見れば障子の隙間から地面に降り立つ糸の欠片が見える。
ぶつりぶつりと続く音。切れていく。断たれていく。
はらりはらりと落ちて、土に触る前に消えていく糸。
解かれて、いく。
…たのめて…男
角…鬼に…疎まれ
…雪…冷…
…ねかし…歩け
一本一本が途切れながら呪詛をつぶやいているが、その音も消えていく。
「ほどけ、た?」
屋敷を雁字搦めにしていた糸が。呪詛の根元が。解けて消えていきます。
「呆気ねぇ、なぁ」
彼にも見えていたらしい。
解けて消えていく糸に目をやり、胸にたまった息を長く長く吐き出しました。