試写会
目の端に写ったもの。それは、私が手の届く位置にありました。
文机の上にあるそれをかすめ取り、母様が口を開けかけた瞬間を狙って。
「失礼します」
饅頭を、押し込みました。
本来ならば窒息の危険大なので、良い子は真似してはいけません。
「むぐっ」
「はい、母様甘いものを食べてすこし落ち着きませんか?」
「ぐっ」
「あら。朝から置いてあるのでほんのちょっと堅いかもしれませんねぇ。
せっかくお律様が持ってきてくださったものですし。
喉に詰まらせないように注意して下さいませね」
「ぐ、んぐ」
「噛んでいます?噛んでいますね。ではでは、吐き出さないようにお気を付け下さいね」
無駄に丁寧に厭味ったらしく、自分のことなのに腹立たしいほどにこやかに。
私はさらに御饅頭を詰め込みました。懐紙に包まれているので、私の手は無事です。
握りこぶし半分ほどの饅頭。須黒が好む、相楽屋という店の菓子です。
これも、おそらくはお茶と一緒に届けられた妹からのものでしょうけど。
御饅頭としては小ぶりですけど一口に入れれば噛むのも一苦労の様子。
私は口下手なので、直接口を閉じさせていただきました。
その間に、三味線を抱えて座り込み、呼吸を整える。
思い出せ、思い出せ、できるはずです、私は。
この体は知らぬこと。
橘 あいは知らぬこと。
だけど、高木 あいならば知っている。
覚えている。
集中して、研ぎ澄ませて。
十、九、八、七、六、五、四、三、二、一……
…零
そのまま、前回と同様瞼の奥に冬をイメージする。雪の積もった、真っ白の世界を。
音が吸い込まれたかのような無音の世界を。
そして、自分すらも吸い込まれていく。呼吸に合わせて
ひぃ ふぅ みぃ よぉ
今日は、十段階のうちの四。
「母様、映画の試写会なんぞはいかがですか?今ならタダです無料です。
ですが、」
ぱん、と響いたのは柏手一つ。
何とか咀嚼し飲み込むことに集中している母様の意識が、私に集中する。
鋭くなった感覚の中、ダイレクトに感情が衝突してきます。
何をするのだと、怒りと羞恥、そして恐怖が混じり合って。
一気に情報量の増えた世界に、目の底が焼き切れそうに熱い。視界がぶれる。
でも、まだ、耐えられる。
「見て頂くのはリアルホラー映画にございます」
撥を構える。糸に添えて、音を一つ、弾いた。
紡ぐ糸は私の中。
引き出した後、そのまま相手に手繰り渡して。
次に、
絡めて
絡めて
雁字搦めに
◇ ◇ ◇
途中、青い顔をして悲鳴を上げた母様。
朱華さんに駆け付けた柏木さん。あと、騒ぎを聞きつけた奉公人が何人か。
一同はひとまず、母様を運んで母屋に戻っていきました。
私は離れにいることを厳命され、今はただ一人ぽつんと。
何時ものように一礼して、痙攣する腕で三味線と撥を置きました。
ずきずきする頭を抱えて、米神を揉み解して。体は怠くて重くて。
「やって、しまいました」
母様が視たものは、先日、いきなり庭に現れた歪な女性です。
朱華さんと柏木さんが追っていた、呪詛が形を成したもの。
私が先日経験したことを、母様にもほんの少し、体験していただきました。
自身の目で見たように、感じたように、そのままに。
胸の辺りがむかむかします。大きく息を吸って、吐いて。
「とうとう、弾けたねぇ」
滑り込んだ声。耳慣れた音。漂う、煙の香。
…うそ
ばっと振り向く。
黒地に彼岸の咲いた着流しと紅の角帯、その上から紫紺の飾り紐が巡った姿。
よくよく知っている、出で立ちです。
当たり前のように、横に座って。
音もなく気配もなく、いつものように。
「…どうして、いるのです」
帰った、帰って頂いたはずです、あなたは。
「おんや、あっしがいるのは邪魔かい?」
須黒はくぅるり、と煙管を回してからかい交じりの顔で言いました。
「…」
「なら、いいじゃねェか」
何も言えなければ、須黒はまた、悪企みした顔で笑いました。
煙が漂います。宙に燻らせた白煙をしばし目で追う須黒。
少しの沈黙、でも苦痛じゃありません。
どう、しましょう。
こうして、二人で縁側に何もせずに座って、庭を眺めたり煙管を眺めたこと。
随分と、遠い日のことのように思います。
喉の奥がつまって、でも吐き出すのは押しとどめて。
情けない、ですねぇ。
「あい」
須黒が、手を伸ばしてきました。は、と息を呑みます。
とっさに避けられなかったのは、久しぶりに名を呼ばれたからでしょうか。
目元に触れる冷えた指を、そのままに受け入れてしまいました。
「隈ができてらァ」
「…そうですか」
最近そういえば、まともに寝ていません。
なんて、最近のことを考えていれば、肩をぐい、と押されていました。
「・・・ちょ、と」
倒れこむ体、頬骨にぶつかる衝撃、布の感触。
「こういう、のは、殿方が、喜ぶものかと、思いますが」
「あんれ、してくれんのかい」
「ま、さか!」
起き上がろうとして、しかし須黒の骨ばった手が肩を抑えたままで。
動けません。
「…離して、ください」
「寝ちまいな」
「逆に、寝れませんよ」
「恥ずかしいのかい?」
「分かって言っていますね」
こちらでもあちらでも、こういう事には一切無縁の生活ですが。
「お前さんは本当に、面白いねぇ」
「面白いですか」
「違うのかい?」
くつりくつりと、喉の奥で笑われた。骨ばった手が、頬をなぞる。
「私、は。あなたの前で、色んなことをしました」
「そうさねぇ」
「きっと、“こちら”の方にしても、あり得ないことをしました」
「あっしも形にしたのは初めて見たねぇ。だからこそ、」
前は、読み取れた(二人を)
次に、形にできた(紙人形に)
そして今度は、人と共有した(母と)
「次はなんだろうと、考えつまうねぇ」
須黒が言う。心底、興味深そうな目で。待ち望んでいる顔で。
引きずり出そうとはせず、ただ私のできることを見ているだけの。
「あっしが思ったよりずぅっと、お前さんは面白ェさ」
冷たいようで、悪意のあるようで、全く違う。
「……ふ…ふふ」
「なんだい、何か、可笑しかったかい」
不思議そうな、虚を突かれた顔をしました。
どうやら私、自然と頬が緩んでしまったようですねぇ。
「面白いと、そう言われたのは初めてです」
“あちら”でも“こちら”でも。
嘘と言われた。あり得ないと言われた。
疑心に畏怖を向けられ、私自身、そういうものだと感じていました。
当たり前なのだと、思っていました。
そして、たとえ信じ、理解を得られても、また。
「詳しく、聞かれるのだろうと思っていました」
「そんなもん、あの二人が根掘り葉掘り聞くだろうさ」
「ですかねぇ」
「聞かれるのは、嫌かい?」
空気が変わりました。
ぐい、と顔を近づけられて。
「嫌なら、攫ってやろうか」
真上から青灰色の目。いつかに見た焔を宿して。
その中に写る、情けない顔をした私。
身動きした私を、須黒がさらに手に力を込めて押しとどめた。
青灰色から逃げられない。逸らすことは、許されなかった。
「どうするんだい。あい」
尋ねられた。今後のことを。
誘われる。楽な方へ、逃げる方へ行かないかと。
でも。
一呼吸、置く。
「あいにくと、」
今までのことが思い出される。
今回の一件、それよりもっともっと遡って。
「すでにどっぷり嵌っちゃっているんですよねぇ」
「…そーかい」
「そうですよ」
きっと、今逃げても。逃げ続けることはきっと、できない。
二つの命を、知った。聞いた。知らないことには、もうできない。
そんな私の我儘を、須黒はどう受け止めたのでしょう。
「お前さんは、逃げないんだねぇ」
整った顔が離れて、青灰色も逸らされ、私の体からふ、と力が抜けました。
ゆるゆると、今更ながら疲労感が押し寄せてきて。
「私は…ただ…臆病な…だけ……」
ゆるり、ゆるりと、須黒が髪を梳く。その手つきにも、眠気を誘われて。
このまま眠れば須黒の足がしびれるかも、とか。
いや、そもそも男性の前で寝顔を晒すのもどうか、とか。
話の途中なのに、とか。
いろいろ、考えましたけど、も。
急速に思考がぼやけていきます。
「お前さんは、あっしとは違うんだねぇ」
最後に須黒が何と言ったのかは、朧げで聞き取れませんでした。