洪水
始めに目を閉じて、呼吸を整える。
十、九、八、七、六、五、四、三、二、一……
…零
そのまま、瞼の奥に冬をイメージする。雪の積もった、真っ白の世界を。
音が吸い込まれたかのような無音の世界を。
そして、自分すらも吸い込まれていく。呼吸に合わせて
ひぃ ふぅ みぃ
十のうち、三まで数えて目を開ける。
場所は変わらず長屋の中。目の前の二人も変わらず座している。
ただ、頭が重い。目から、耳から、鼻から肌から、急な情報の増加に頭が混乱する。車酔いのような、混雑する交差点のど真ん中に立ち尽くした感覚。音と色と臭いの洪水。
久しぶりすぎて、うまくコントロールできていない。
二、三度同様に息を吸い、吐いて。
嵐のような現状に慣れたら紙人形を『視る』
二つの黒い人形に、巻き付いているかのような、薄い糸状のものが見える。
手を伸ばす。
今の私なら、触れられる。
手を伸ばし、糸を拾って指に絡めて。
絡めた糸から流れるものが、指を取って撥や弦に向かう。
あとは音を使って、紡いでいく。
走っていた。
もう周りはすっかり暗くて。こわかった。
早く家に帰らないと。かえろう。
暗くなってしまった。暗いのが怖い。こわい。
きっとおばあちゃんが心配している。早く、帰ろう。かえろう。
その一心で、走っていた。
後ろから這う闇には気付かずに
歩いていた。
すでに辺りは夜の闇
この場所で、この時間に。
あの子は、いなくなった。
何故、何故。あの子が、どうして。
後ろから、音が来る。
そう、お前が、お前があの子を
◇ ◇ ◇
異変を感じたのはしばらくしてからでした。
何かに引き寄せられていることに気がつきました。
「あ・・・!」
珍しく須黒が名を呼んでいた気がします。
私は、飲まれていきました。
◇ ◇ ◇
呼吸を忘れ、感覚を忘れて。
自分の存在がわかりません。三味を弾いているはずの手の存在も、感じられません。
目に入る景色は、長屋ではありません。
須黒も、名前の知らぬ彼女も見えませんでした。
ここは、どこ。これは、何。
なぜ、私はここにいる。どうして、私はここに在る。
夢ですか、これは。夢であってほしい。夢でなければ
どうして、何もないんだろう
否、存ります。ただ限りなく広がる闇が。
ですが、一向に目が慣れません。月も星も、音も風もなく。
「…戻りや」
声が、聞こえた。あの、赤い狩衣の女性。
風が通り過ぎた。紅色の欠片が散らばった。
いきなり飛び込んできた色彩に、目が痛い。
むせ返るような、甘い匂い。
「戻りや、こちらへ」
分かった。舞うのは椿の花弁なのだと。
分かった。この世に、この目に、色が戻ったことを。
舞う。舞う。椿が。何度も見た、花弁が。
だが、ここまで美しいものだったでしょうか。
ここまで、目を奪われるものだったでしょうか。
「お主、ずれておるな」
あぁ、どうしてこんなことになったのでしょう。
今私はどうなっているのでしょう。
どうしてどうして
気付かれたのでしょう。
「戻られましたね」
知らない、声がした。