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絃ノ匣  作者: しま
第二章 「棹の部」
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玉露か甘露

一部、残酷、グロテスク表現があります。

相手がどんな意図をもちどんな危険があるのか、なんて知りません。知らない方がよさそうです。

ですが確実に現状は危険です。とりあえず逃げなければなりません。こんな現状をつらつら述べる前に至急。ですが、なんと言うこと。

体が動きません。まるで重石が膝にあるような。

悲鳴すら上げられません。ただ、空気が出入りするだけで


◇ ◇ ◇


黒々とした瞳がにんまり、と歪みました。


「動ケまセヌカ、然様サヨウデスとモ」


彷徨っていた視線はしかと合わさって、逸らすこともできません。

一瞬で、私は文机に押さえつけられていました。

幼子の手が顎と頬に食い込みます。


「守りニ目くラマし。

しカシ穴ガ空いテりャ意味もなイでしョウや」


老女の顔が、生え揃った白い歯を見せました。

鬼さんがいつも浮かべる笑みとは異なります。彼は笑みでごまかし、隠します。しかし老女は笑みで殺意をむき出しにし、私に呼びかけた。


「ナぁ、オ律様」

(…え?)


どういう、ことですか。

違う。その名前は私じゃない。この女が狙っているのは私とは別だ。

その名前は私の、


「かヨうナ離れニ逃ゲ隠レヨうト、縁ハ断てマセヌえ?」

(まるで、私がつい最近ここに来たような)

「此処デ、終いニ致しマシょウ?」

(前々から、追ってきたような)


指が、もう瘡蓋になっている細い傷に触れた。

爪が、食い込む。


「赤ウテ、熱ウモのでスナぁ」


血が滲む。私はただ、見ていることしかできません。

動ければ、叫べれば、何か変わるのでしょうか。

この状況を変えられる存在を、一人知っています。

ですが、呼べません。呼ぶ名を知りません。


「イカな味で、いカな香リでシょウナぁ。玉露カ甘露。

甘露がヨイでスなァ」


歌うように言って、さらに爪が食い込んでくる。

傷口は小さいのに、痛い、むしろ熱い。

老女が光悦とした顔で傷から指を離し爪先に付いた血を、舐めた。

だめだ、このままでは


喰 わ れ る


「ヤハり、やハり、甘露でシタなァ!」


口が開く。尖った犬歯が見えた。狙い定めるのは、同じく私の指。

指に食い込む?指が食われる?指が、なくなる?人違いで?

弾けなくなる?もう弾けない?もう、“追えない?”


(あはは。 そんなこと、  断じて、   拒否する!)



てぃん


「何?」


てぃん、てぃん、と二つの音。

二と三の音。調弦のように撥も押さえもない糸だけ爪弾いた音。

弾き手のいない、二音が重なる。

理由を考える余裕なんてありません。ただ、


「な、ニ?」


拘束が外れた。体が動ける。それが一番、重要です。


両の肘を伸ばし、相手の胸元を突き押した。

のけぞって倒れ込んだ女から離れ、足袋のまま庭に飛び降りました。

逃げなければ。女のいないところ、女が追えないところに


「アな、アナ」


ず、ず、ず。

しかし、すぐに近づく何かを引きずる音。引きずられる音が。

後ろは決して、振り向けません。


「口惜シや」


ずる、ずる、ずる。

狙うは血か、命そのものか。分からないことは一層気味の悪い。

寧ろ危険だと、誰かがいいます。

息が苦しい。足も重くなってきました。

また、動けなくなるのでしょうか、また、喰われるのでしょうか


「いや、です、ねぇ。体の、なまり、は」


思い通りに、動かない

近くに来る。近づいてくる。

(あれ?)

一瞬、見慣れた派手な柄が見えた気がした。違う、私が横を通り過ぎた。さっきまでは何もなかった、いなかった視界に紛れ込んだ黒地に紅の彼岸柄。

どうしてだろう、つんとした煙草の匂いまでしました。


「およしよ」


声が、後ろからした。

待ち望んで、でも呼べなかった声。


振り返ると、何度も思い浮かべた着流しが見えました。


「…………ぉ……っ」


口から出たのは掠れた声。

鬼さん…きっと私の後ろにいるのと同じ存在ものはいつも通り庭先で煙管を片手に振り返り、私と前のものに目をやって、笑んだ。


「良い朝だねぇ」

「嫌みですか!?」


あまりの一言に今度は声が出た。


「そうかい?」

「えぇ、えぇ、そうですとも!

鬼さんから見れば愉快な追いかけっこでも私にとっては命がけです!爽やかな朝の運動に見えますか、そうですねそうですか!!」

「…お前さん、」


怒鳴って、しまいました。半ば八つ当たりです。

ですが、鬼さんは途中で肩を振るわせて笑っていました。

いつものように黒地に派手な彼岸の着流し。

びっくりするぐらい、腹が立つくらいいつもどおりです。


あぁ、もう、取り乱してしまった自分が情けないです。

そして、いつのまにか背中に匿われていることも居たたまれません。


「庇ウか、そやツヲ」


嗄れたような、瑞々しいような、敵意に満ちた歪んだ音。

鬼の肩越しに女らしき、存在モノが見えました。

先とはさらに歪な、異形です。私が突き飛ばしたからでしょうか。両腕は裾から伸びて垂れ下がり、地面を引きずっていました。先の引きずる音の原因でしょう。人の腕じゃありません。たとえ関節が外れたとしても、ありえない。


「あっしも聞きたいねぇ。こいつの血、どうすんだい?」

「血?甘露ノコとかエ?」


けたけた、と女が笑った。笑う度に両腕が地面を擦った。


「美味そウダろう?」


改めて、鳥肌が立った。


「橘のハ力を持ツト聞くガ、噂以上ノ味ヨ」


橘とはこちらでの私の姓です。力、は分かりません。

とにかく、聞くだけです。


「よしな。あんたには甘すぎる。腹ァ壊すぜ?」

「妬ミカえ?喰えヌ己ヲ嘆カレまセや」


鬼は呆れを含んだ顔で言った


「あっしは伝えたぜ?」


そして、ほんの少し目を見開いて、憐れみが混じる。


「………あぁ、あんた、もう喰っちまったのかい」


ごとり、と両の腕が落ちた。


「ヌ?…何ト」

「怖いなら目、閉じてな」

「・・・ぁ」


言われている間に女は出血も悲鳴もなく、崩れていった。

糸の切れた人形のように地面に潰れて、転がった首と、目があった。


「アナ、疎マシい。あノ女、私ハ移さレテおリマシたカ。然り、然リ、あナた様ハ、形代にゴザいまシタか」

「かたしろ?」

「人の身デ、人ノ血で、私ヲ歪めタヨ」


けたけたと老女の顔が笑えば首も揺れる。

鬼が動いた。一歩、二歩と歩み寄り、ぽとりと煙管の灰を落とせば、着物に火がつく。

悲鳴はなかった。ただ、炎の中でずっと丸いものが揺れ動いていた。

最後までずっと、笑っていた。否、嗤っていた


燃え尽きて、消えて、笑みを消した鬼は地面を見たままです。


「かばねだよ」


カバネ、かばね、いえ違います。きっと、かばね

死体と、言うことですか


「最初は老女が、最後に童女が、あの橋で喰われたのさ」


なに、に?


「元は、こやつさ」


指差したのは、若い女人の艶やかな黒髪でした。

それだけが何故か、一切燃えていません。

鬼は懐から暗紫の風呂敷を出して、髪を包みました。

きつくきつく結んでまた同じ地に置けば、風呂敷は透けて、消えていきました。

もう、全部、消えていってしまいました。


「まぁ、これでいいさ」

「………終わり、なのですか」

「そうさな」


どうして、という質問に答えてくれそうにありません。

ならば、他のことを尋ねるだけです。


「どうして、ここに?」

「おんや」


鬼さんは少し目を丸くして、可笑しそうに笑った。


「お前さんがあっしを呼んだろう?」

「私、が?」

「そいつでさ」


示したのは、部屋の片隅の長袋。三味線が変わらず入っています。


「さっき、独りでに三味線が鳴りました」

「お前さんが呼んだからさ」

「鬼さんの名前、知りません」

「知らなくとも呼べたさ。二度目だからねぇ」


初めて会ったのも、私が呼んだからと、言っていた気がします。

地面に燻る塊を見る。私はたぶん、文字通りあの口に喰われかけたのだと思います。


「ありがとう、ございます」

「おや、簡単にあっしに礼を言っちまっていいのかい?」


にぃ、と笑う


「返す礼に、何を求めるか分かんねぇぜ?」


確かに、そうですが…

鬼さんはこちらををじぃ、と見つめました。


「何です?」

「いやに冷静と思えば。お前さん、ちぃとも頬が動いてねぇなぁ」


笑えていない、と。むしろ、無表情だ、と。

そう、かもしれません。なんだか、顔が強張っているようです。


「気付いてなかったのかい」


全然。どうしましょう。放心状態、なのでしょうか。頭が働いていません。鬼さんは何か言いたげに私を見て、しかし言わずに何かを投げました。


「こいつを」

「…わ」


あわてて受け取ってみると小さい黄色の輪、鬱金うこんで染められた絹糸です。

要は一番細い三味線の一の糸でした。

いつの間に。手品ですか


「昨日は結局買えなかったろ」


そういえば。昨日、買いに行きましたねぇ。

昨日のことがすでに、霞がかっていました。いけません。

何故鬼さんが糸を持てるのか、は気にしたら駄目なのでしょうね。


「弾いとくれな」

「…はい」


とりあえず、言われた通りに。それが礼になるならば

まずは糸を張って、調弦しましょう。

あ、その前に、土だらけの足袋を変えなければ。




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