止めてください、奥様。旦那様がまた城を買ってきました
「どうか止めてください。奥様」
朝食の席へ向かおうとした私の前に、執事のヨハンが青い顔で立ちはだかった。廊下の先を歩いていたメイドたちが何事かと、振り返ったのが見える。
「どうしたの?」
嫌な予感がする。ヨハンのこの顔は、結婚してから何度も見てきた。白が混じった眉を限界まで下げて、真剣な眼差しで私に助けを求めているかのようだった。
「旦那様が、また城を買ってこられました」
私は一度まばたきをして、処理しきれない言葉をなんとか飲み込もうとしたが、脳では理解できなかった。
「今、何て?」
「また、城でございます」
また。以前にも、旦那であるアルヴィスは隣国の大きな城を買ったことがあった。その時は確か、私が本の挿絵に出てきた城に対して『このお城素敵…』と呟いた一言がきっかけだった。まさか、城をまるごと買うとはその時も思っていなかった。
「なぜ?どこの?」
疑問ばかりが湧き出てきて、思わず身体が前のめりになる。ヨハンは静かに汗を拭った。
「北方の古城でございます。」
思考が停止し、言葉が出てこなくなった。
私とアルヴィスが夫婦になって、まだ三か月。彼は王国一の大富豪であり、公爵家当主であり、剣も魔法も超一流という、神様が盛りすぎたような人だった。 そんな彼が私を好きになってくれたのも信じられなかったが、最近では彼からの愛を身をもって理解している。
「昨日、奥様は『今日は、街が騒がしくて少し落ち着かないわね』と仰いましたよね?」
「あ……」
言った。確かに言った。
昨日は領地での収穫祭があった。市場が賑やかで、夜もお祭り続きで、少し疲れたという意味で、食後のお茶の時間に漏らした。私の伝え方も良くなかったと思う。いや、でも『今日は』と伝えたはずだった。
その後アルヴィスは、頭をよしよしと撫でて癒してくれた。それだけで、私は満足していたのに。
「旦那様は、静かな場所が必要だと判断されまして……」
「まさか、それで?」
「はい。城を、ご購入されました」
「買わなくていいのよ!」
思わず叫ぶと、廊下にいたメイドたちが「いつものことですね」とすぐに目線をそらし、日常の業務に戻っていくのが見えた。こうやって、屋敷の人たちが慣れてしまうほど、彼は私に色々と贈ってくれるのだ。
「奥様、それだけではございません。」
「もう聞きたくないわ……」
私が小さく息を吐いてもヨハンが、まだ何かあると言いたげに続ける。
「隣接する森一帯も購入済みです」
「え、えっ……え?」
「城内の静寂を保つため、狩猟も伐採も禁止に」
「ええっ!?」
「近隣の村には補償金を支払い、移住を希望する方には新居を用意し────」
「止めて止めて止めて!」
私が頭を抱えると、ヨハンはまた静かに汗を拭った。私が欲しかったのは、一晩だけの静けさであって。城でも、森でも、村ごと買うことでもない。それでも、すべて私のための行動であった。
「アルヴィスは今どちらに?」
「古城の改装を視察されております」
「今すぐ迎えに行きます!」
ドレスの裾を掴み、私が廊下を駆け出すと、ヨハンもそれに続いてくれた。
アルヴィスはどれだけ朝早くから起きているのだろうか。放っておけば、帰ってくる頃には橋が増えたり、庭園が広がったり、最悪の場合城が二つになっているかもしれない。
結婚して三か月、私はようやく悟った。執事ヨハンやお義母様も何度もアルヴィスを何度も止めていた。それでも、彼は私の為に全力だった。この人を止められるのは───妻である私だけなのだ。
古城へ向かう馬車の中で、私は何度目になるか分からないため息をついた。
彼はきっと、悪気など一切ない。それが一番困るところだった。アルヴィスは王国でも指折りの権力者であり、誰もが恐れる冷静沈着な公爵。けれど、私の前では全然違った。
私が寒いと言えば、翌日には最高級の毛布が届いた。私が疲れたと言えば、専属の薬師と料理人が増えた。私が『庭に綺麗な花があったら素敵ですね』と言えば、庭園が一つ増えた。
「奥様申し訳ございません」
思い悩む私に向かいに座るヨハンが、口を開いた。
「ヨハンが謝ることではないでしょう?」
「ですが、私も最初は止めたのです」
「最初は?」
「……はい」
ヨハンは遠い目をした。
「旦那様が妻が静かな場所を望んでいると仰った時、私は『奥様の部屋に防音魔法をかけてみてはいかがでしょうか』と申し上げました。ですが旦那様は、『屋敷では人が多い。妻が本当に心から休める場所を用意したい』と仰られ、その結果が、古城でございます」
私は額に手を当てた。アルヴィスらしい。本当に、アルヴィスらしい。優しさと好意故の行動だということは伝わってくる。心も温かくなり、私への愛は真実なのだと思い知らされる。
そもそも、私たちの結婚は政略結婚だった。アルヴィスから婚約を申し込まれた時も、私は驚きこそしたものの、彼が私を愛しているとは思えなかった。家同士の結びつきのために、私を妻に選んだのだと考えていたからだ。
だから、彼が私のために贈り物を用意してくれても、欲しいものを尋ねて叶えてくれても、それは夫としての務めなのだと思っていた。妻を大切にすることは、貴族として当然のこと。彼はそういう人なのだと、自分に言い聞かせていた。
もちろん、嬉しかった。彼が私のために何かをしてくれるたび、胸が温かくなった。けれど、そこに愛情があるのだと信じてしまうのが怖かった。もし勘違いだったら。もし私だけが特別な意味を見出していたのだとしたら。そう思うと、彼の優しさを素直に受け取ることさえできなかった。
「……今まで、私は甘えていたの。アルヴィスが私のことを好きになってくれたのも、結婚を申し込んでくれたのも奇跡のようなことだった。アルヴィスの愛が信じられなかった。だから、私は言えなかったの。断ってしまって、もし嫌われたらどうしようって……」
涙が落ちそうになるのを、堪えるために上を向いた。するとヨハンの静かな声が響く。
「旦那様には秘密にしてほしいのですが。アルヴィス様も同じことを申しておりました。エシュア奥様が結婚の申し出を受け入れてくれたのは奇跡だと。」
「アルヴィスが……?」
「はい。アルヴィス様は最初から奥様のことを愛しておられるのです」
私は言葉を失った。あの人が、そんなことを思っていたなんて。彼はいつだって堂々としていて、誰よりも冷静で、何一つ迷うことなどない人だと思っていた。私だけが、以前から彼に好意を寄せていたのだと思っていた。
だから私は、必死だった。嫌われないように。失望されないように。重荷にならないように。そのためなら、少しくらい我慢してもいいと思っていた。
しかし、アルヴィスは私のために、行動で示してくれていたのだ。妻として必要なものを与えるだけなら、屋敷の一室に防音魔法をかければ済む話だったはずだ。それでも彼は、私が本当に心から休める場所を望んで、そこまでしてくれたのだ。あの人の優しさは、義務などではなかった。私を愛してくれていたからこそ、私の願いを叶えようとしてくれていたのだ。
「あの方も、同じだったのね」
思わず零れた言葉に、ヨハンは静かに頷いた。
「ええ。奥様を失うことだけは、何より恐れておられます」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。私だけが怖かったわけじゃ、不安だったわけじゃない。そう思った瞬間、おかしくて、愛おしくて、また涙が込み上げる。
「……ちゃんと話してみます」
「それがよろしいかと」
ヨハンは珍しく、ほんの少しだけ微笑んだ。
「できれば、もう一つ城を増やす前にお願いいたしますね」
その一言に、私は涙を拭いながら思わず吹き出した。
「……ええ。本当に、その前に。」
***
古城に到着すると、そこにはすでにアルヴィスがいた。黒い髪を風になびかせ、騎士たちに指示を出している姿は、まさしく公爵そのもの。
けれど、私の方を向いた瞬間、表情がぱっと明るくなる。その笑顔を見た途端、心臓を掴まれたような気持ちになった。
「エシュア、来てくれたのか」
その声が嬉しそうで、私は怒るタイミングを失ってしまった。
「アルヴィス」
「気に入ってくれると思う。君の部屋は一番日当たりがいい場所にした。窓から森が見える。庭にはエシュアが好きな花を植えた」
アルヴィスは古城を見上げながら、穏やかな笑みを浮かべていた。
「アルヴィス」
「それから、街の喧騒が届かないように防音魔法も───」
「アルヴィス!」
ようやく私の声が彼の耳に届き、アルヴィスは驚いたように私を見つめた。
「どうした?」
私は深呼吸する。彼に初めて、やり過ぎだと伝えるのだ。彼の愛を信じて。
「なぜ城なの?」
「君が静かな場所を望んだから」
私の為だと言われ思わず一歩引きそうになる。それでも、自分の手をぎゅっと握りしめた。
「……私はただ、少し疲れたと言いたかったの」
「分かっている」
「分かっていて、城と森と村?」
少し口調が強くなってしまった。それでも、嫌われたくないからと逃げていた私ではない。アルヴィスを信じて、伝えたかった。アルヴィスは困ったように眉を下げる。
「君に苦労をさせたくなかった。」
「苦労なんて何も……」
彼は静かに続けた。
「私の妻になってくれてから、一度も不満を言わない。ずっと笑っているだろう」
「それは……」
「だから、せめて私にできることは全部したかった。私は君が好きで、君を妻に選んだことを分かってほしかった。」
その言葉に、胸が詰まった。この人は、本当に私を───
「アルヴィス、ごめんなさい」
「ん?なぜ謝る?」
「私は、貴方に嫌われたくなくてずっと本心を言えなかった」
「嫌う?私が、エシュアを?」
考えてもいなかった、そういう反応に私は確信を持てた。私が本心を伝えたとしてもアルヴィスは受け止めてくれる。
「私が欲しいものは、城ではありません」
「───」
「森でも、村でもありません」
彼は真剣な顔で私を見る。贈った城や森を断られても、アルヴィスは表情を変えなかった。ここでせっかく買ったのに、とはならないところも素敵だ。
「では、何が欲しい?」
私は少し笑った。アルヴィスは私のために何かしたくて仕方がないようだ。愛おしさが込み上げてくる。ただ、私の欲しいものはずっと決まっていた。
「アルヴィスと一緒に、お茶を飲む時間が欲しいです」
アルヴィスは口を開かず、目を瞬いた。解読不能な古代魔法でも聞かされたような顔だった。
「……それだけでいいのか?」
「はい」
「城や、森より?」
「はい」
アルヴィスからこんなに質問されたのは初めてだった。私のことを知ろうとしてくれているのだろうか。それだけでも、以前よりももっとアルヴィスとの距離が縮んだ気がする。
「ドレスや宝石より?」
「ふふ! あなたが一番欲しいに決まっています」
アルヴィスの顔が、ほんの少し赤くなった。
王国中が恐れる公爵様が、私の一言だけでこんなにも動揺する。告白をしてくれた時も、愛の言葉を囁く時も、結婚しようと言われた時も、みんな知らない私だけの公爵様の顔だ。
「……困ったな」
「何が?」
「ますます君を大切にしたくなった」
ぼっと音が聞こえるくらい、私の顔は熱くなった。言葉ではあまり言ってくれないアルヴィスが、きちんと私の目を見て伝えてくれた。
「ありがとう、アルヴィス」
「君の意見はもちろん尊重する。私も君との時間を過ごしたいからね。では城は別で使うとして───」
「して?」
「次は、エシュアと二人で過ごせる小さな別荘を探そう」
嬉しくて思わず笑ってしまった。私の意見も聞き入れてくれて、それでもアルヴィスが私と一緒にいたいと思ってくれて。
「とっても嬉しいけど、購入する前に小さいの基準を教えてね」
私の言葉の後、黙っていたヨハンが一歩踏み出した。
「旦那様。奥様とのお茶の時間を守るためにも、必ずや購入前にご相談ください」
私は小さく頷く。アルヴィスは少し考えてから、
「……努力しよう」
その返事に、私は笑った。ヨハンはむせ込んだしまっていたけれど。
私のことが愛おしすぎて、城や森まで買ってしまうような重たい公爵様。それでも、重すぎるくらいの愛を、私は嫌いではなかった。むしろ、今では少しだけ誇らしくさえある。これほどまでに私を想い、私が心から安らげる場所を作ろうとしてくれる人が、私の夫なのだから。
これから先、きっと私たちは何度もすれ違うだろう。アルヴィスは相変わらず、私が少しでも困れば何もかも解決しようとするだろうし、私はそんな彼を止めるために、何度も頭を悩ませるに違いない。
けれど、もう大丈夫。彼の愛を疑うことも、嫌われるのを恐れて言いたいことを飲み込むことも、きっと少しずつ減っていく。だって、私たちはこれから、何十年も一緒に過ごしていくのだから。
「あと、二人ではなくて、三人で過ごせる小さな別荘を探そうね」
私の言葉に、落ち着いていたヨハンが今度は盛大にむせ込んだ。
「お、奥様……! それは、つまり……!」
ヨハンの声をかき消すように、物陰からいくつもの悲鳴にも似た歓声が上がった。どうやら、盗み聞きしていた使用人や騎士たちが、今の言葉をしっかり聞いていたらしい。いつの間にか騒がしくなってしまい、私は思わず頬を押さえた。
目の前のアルヴィスが、信じられないものを見るような顔で私を見つめていた。いつもはどんな時でも落ち着いていて、私が驚くほど堂々としている人なのに。今はその瞳に涙を浮かべ、何かを言おうとしては言葉に詰まっている。
「アルヴィス……?」
「エシュア!!」
次の瞬間、彼は私を強く抱きしめた。あまりの勢いに驚いたものの、背中に回された腕が小さく震えているのに気づき、私はそっと彼の胸に頬を寄せた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
耳元で囁かれた声は、いつになく頼りなかった。きっと彼は、私がどれほど彼を愛しているのか、今でも時折、不安になるのだろう。私が結婚を受け入れてくれたことを奇跡だと言ったように、彼もまた、私の心を確かめることが怖かったのかもしれない。だから私は、彼の背中に腕を回し、今度は自分から抱きしめ返した。
「……こちらこそ、ありがとう」
あなたが私を愛してくれたこと。私のために、何度も手を伸ばしてくれたこと。そして、あなたの愛を信じる勇気をくれたこと。
やがてアルヴィスが顔を上げると、目元に涙を残したまま、私に優しいキスを落とした。触れるだけの口づけが、もう一度、今度は少し長く降ってくる。こんなにも愛されているのだと、もう疑う必要はない。
──とはいえ。このままでは、生まれてくる子供に何でも買い与えてしまいそうだ。小さな別荘どころか、子供専用の城や庭園まで用意しかねない。いや、きっと本人は真剣に考えるだろう。私はそっと顔を上げ、涙の跡を残した夫を見つめた。
「アルヴィス。子供には、必要なものだけ買ってあげてね?」
「……もちろんだ」
返事が早すぎる。これは絶対に、わかっていない。
私は小さくため息をついたけれど、彼の重すぎる愛を、私は嫌いではない。むしろ、これからは私も同じくらいの愛を返していきたいと思う。ただし、城を買う前には相談してもらおう。




