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止めてください、奥様。旦那様がまた城を買ってきました

作者: 星堂りお
掲載日:2026/10/24

 


「どうか止めてください。奥様」


 朝食の席へ向かおうとした私の前に、執事のヨハンが青い顔で立ちはだかった。廊下の先を歩いていたメイドたちが何事かと、振り返ったのが見える。


「どうしたの?」


 嫌な予感がする。ヨハンのこの顔は、結婚してから何度も見てきた。白が混じった眉を限界まで下げて、真剣な眼差しで私に助けを求めているかのようだった。


「旦那様が、また城を買ってこられました」


 私は一度まばたきをして、処理しきれない言葉をなんとか飲み込もうとしたが、脳では理解できなかった。


「今、何て?」


「また、城でございます」


 また。以前にも、旦那であるアルヴィスは隣国の大きな城を買ったことがあった。その時は確か、私が本の挿絵に出てきた城に対して『このお城素敵…』と呟いた一言がきっかけだった。まさか、城をまるごと買うとはその時も思っていなかった。


「なぜ?どこの?」


 疑問ばかりが湧き出てきて、思わず身体が前のめりになる。ヨハンは静かに汗を拭った。


「北方の古城でございます。」


 思考が停止し、言葉が出てこなくなった。

 私とアルヴィスが夫婦になって、まだ三か月。彼は王国一の大富豪であり、公爵家当主であり、剣も魔法も超一流という、神様が盛りすぎたような人だった。 そんな彼が私を好きになってくれたのも信じられなかったが、最近では彼からの愛を身をもって理解している。


「昨日、奥様は『今日は、街が騒がしくて少し落ち着かないわね』と仰いましたよね?」


「あ……」


 言った。確かに言った。


 昨日は領地での収穫祭があった。市場が賑やかで、夜もお祭り続きで、少し疲れたという意味で、食後のお茶の時間に漏らした。私の伝え方も良くなかったと思う。いや、でも『今日は』と伝えたはずだった。

 その後アルヴィスは、頭をよしよしと撫でて癒してくれた。それだけで、私は満足していたのに。


「旦那様は、静かな場所が必要だと判断されまして……」


「まさか、それで?」


「はい。城を、ご購入されました」


「買わなくていいのよ!」


 思わず叫ぶと、廊下にいたメイドたちが「いつものことですね」とすぐに目線をそらし、日常の業務に戻っていくのが見えた。こうやって、屋敷の人たちが慣れてしまうほど、彼は私に色々と贈ってくれるのだ。


「奥様、それだけではございません。」


「もう聞きたくないわ……」


 私が小さく息を吐いてもヨハンが、まだ何かあると言いたげに続ける。


「隣接する森一帯も購入済みです」


「え、えっ……え?」


「城内の静寂を保つため、狩猟も伐採も禁止に」


「ええっ!?」


「近隣の村には補償金を支払い、移住を希望する方には新居を用意し────」


「止めて止めて止めて!」


 私が頭を抱えると、ヨハンはまた静かに汗を拭った。私が欲しかったのは、一晩だけの静けさであって。城でも、森でも、村ごと買うことでもない。それでも、すべて私のための行動であった。


「アルヴィスは今どちらに?」


「古城の改装を視察されております」


「今すぐ迎えに行きます!」


 ドレスの裾を掴み、私が廊下を駆け出すと、ヨハンもそれに続いてくれた。

 アルヴィスはどれだけ朝早くから起きているのだろうか。放っておけば、帰ってくる頃には橋が増えたり、庭園が広がったり、最悪の場合城が二つになっているかもしれない。

 結婚して三か月、私はようやく悟った。執事ヨハンやお義母様も何度もアルヴィスを何度も止めていた。それでも、彼は私の為に全力だった。この人を止められるのは───妻である私だけなのだ。



 古城へ向かう馬車の中で、私は何度目になるか分からないため息をついた。

 彼はきっと、悪気など一切ない。それが一番困るところだった。アルヴィスは王国でも指折りの権力者であり、誰もが恐れる冷静沈着な公爵。けれど、私の前では全然違った。

 私が寒いと言えば、翌日には最高級の毛布が届いた。私が疲れたと言えば、専属の薬師と料理人が増えた。私が『庭に綺麗な花があったら素敵ですね』と言えば、庭園が一つ増えた。


「奥様申し訳ございません」


 思い悩む私に向かいに座るヨハンが、口を開いた。


「ヨハンが謝ることではないでしょう?」


「ですが、私も最初は止めたのです」


「最初は?」


「……はい」


 ヨハンは遠い目をした。


「旦那様が妻が静かな場所を望んでいると仰った時、私は『奥様の部屋に防音魔法をかけてみてはいかがでしょうか』と申し上げました。ですが旦那様は、『屋敷では人が多い。妻が本当に心から休める場所を用意したい』と仰られ、その結果が、古城でございます」


 私は額に手を当てた。アルヴィスらしい。本当に、アルヴィスらしい。優しさと好意故の行動だということは伝わってくる。心も温かくなり、私への愛は真実なのだと思い知らされる。


 そもそも、私たちの結婚は政略結婚だった。アルヴィスから婚約を申し込まれた時も、私は驚きこそしたものの、彼が私を愛しているとは思えなかった。家同士の結びつきのために、私を妻に選んだのだと考えていたからだ。

 だから、彼が私のために贈り物を用意してくれても、欲しいものを尋ねて叶えてくれても、それは夫としての務めなのだと思っていた。妻を大切にすることは、貴族として当然のこと。彼はそういう人なのだと、自分に言い聞かせていた。

 もちろん、嬉しかった。彼が私のために何かをしてくれるたび、胸が温かくなった。けれど、そこに愛情があるのだと信じてしまうのが怖かった。もし勘違いだったら。もし私だけが特別な意味を見出していたのだとしたら。そう思うと、彼の優しさを素直に受け取ることさえできなかった。


「……今まで、私は甘えていたの。アルヴィスが私のことを好きになってくれたのも、結婚を申し込んでくれたのも奇跡のようなことだった。アルヴィスの愛が信じられなかった。だから、私は言えなかったの。断ってしまって、もし嫌われたらどうしようって……」


 涙が落ちそうになるのを、堪えるために上を向いた。するとヨハンの静かな声が響く。


「旦那様には秘密にしてほしいのですが。アルヴィス様も同じことを申しておりました。エシュア奥様が結婚の申し出を受け入れてくれたのは奇跡だと。」


「アルヴィスが……?」


「はい。アルヴィス様は最初から奥様のことを愛しておられるのです」


 私は言葉を失った。あの人が、そんなことを思っていたなんて。彼はいつだって堂々としていて、誰よりも冷静で、何一つ迷うことなどない人だと思っていた。私だけが、以前から彼に好意を寄せていたのだと思っていた。

 だから私は、必死だった。嫌われないように。失望されないように。重荷にならないように。そのためなら、少しくらい我慢してもいいと思っていた。

 しかし、アルヴィスは私のために、行動で示してくれていたのだ。妻として必要なものを与えるだけなら、屋敷の一室に防音魔法をかければ済む話だったはずだ。それでも彼は、私が本当に心から休める場所を望んで、そこまでしてくれたのだ。あの人の優しさは、義務などではなかった。私を愛してくれていたからこそ、私の願いを叶えようとしてくれていたのだ。


「あの方も、同じだったのね」


 思わず零れた言葉に、ヨハンは静かに頷いた。


「ええ。奥様を失うことだけは、何より恐れておられます」


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。私だけが怖かったわけじゃ、不安だったわけじゃない。そう思った瞬間、おかしくて、愛おしくて、また涙が込み上げる。


「……ちゃんと話してみます」


「それがよろしいかと」


 ヨハンは珍しく、ほんの少しだけ微笑んだ。


「できれば、もう一つ城を増やす前にお願いいたしますね」


 その一言に、私は涙を拭いながら思わず吹き出した。


「……ええ。本当に、その前に。」




 ***



 古城に到着すると、そこにはすでにアルヴィスがいた。黒い髪を風になびかせ、騎士たちに指示を出している姿は、まさしく公爵そのもの。

 けれど、私の方を向いた瞬間、表情がぱっと明るくなる。その笑顔を見た途端、心臓を掴まれたような気持ちになった。


「エシュア、来てくれたのか」


 その声が嬉しそうで、私は怒るタイミングを失ってしまった。


「アルヴィス」


「気に入ってくれると思う。君の部屋は一番日当たりがいい場所にした。窓から森が見える。庭にはエシュアが好きな花を植えた」


 アルヴィスは古城を見上げながら、穏やかな笑みを浮かべていた。


「アルヴィス」


「それから、街の喧騒が届かないように防音魔法も───」


「アルヴィス!」


 ようやく私の声が彼の耳に届き、アルヴィスは驚いたように私を見つめた。


「どうした?」


 私は深呼吸する。彼に初めて、やり過ぎだと伝えるのだ。彼の愛を信じて。


「なぜ城なの?」


「君が静かな場所を望んだから」


 私の為だと言われ思わず一歩引きそうになる。それでも、自分の手をぎゅっと握りしめた。


「……私はただ、少し疲れたと言いたかったの」


「分かっている」


「分かっていて、城と森と村?」


 少し口調が強くなってしまった。それでも、嫌われたくないからと逃げていた私ではない。アルヴィスを信じて、伝えたかった。アルヴィスは困ったように眉を下げる。


「君に苦労をさせたくなかった。」


「苦労なんて何も……」


 彼は静かに続けた。


「私の妻になってくれてから、一度も不満を言わない。ずっと笑っているだろう」


「それは……」


「だから、せめて私にできることは全部したかった。私は君が好きで、君を妻に選んだことを分かってほしかった。」


 その言葉に、胸が詰まった。この人は、本当に私を───


「アルヴィス、ごめんなさい」


「ん?なぜ謝る?」


「私は、貴方に嫌われたくなくてずっと本心を言えなかった」


「嫌う?私が、エシュアを?」


 考えてもいなかった、そういう反応に私は確信を持てた。私が本心を伝えたとしてもアルヴィスは受け止めてくれる。


「私が欲しいものは、城ではありません」


「───」


「森でも、村でもありません」


 彼は真剣な顔で私を見る。贈った城や森を断られても、アルヴィスは表情を変えなかった。ここでせっかく買ったのに、とはならないところも素敵だ。


「では、何が欲しい?」


 私は少し笑った。アルヴィスは私のために何かしたくて仕方がないようだ。愛おしさが込み上げてくる。ただ、私の欲しいものはずっと決まっていた。


「アルヴィスと一緒に、お茶を飲む時間が欲しいです」


 アルヴィスは口を開かず、目を瞬いた。解読不能な古代魔法でも聞かされたような顔だった。


「……それだけでいいのか?」


「はい」


「城や、森より?」


「はい」


 アルヴィスからこんなに質問されたのは初めてだった。私のことを知ろうとしてくれているのだろうか。それだけでも、以前よりももっとアルヴィスとの距離が縮んだ気がする。


「ドレスや宝石より?」


「ふふ! あなたが一番欲しいに決まっています」


 アルヴィスの顔が、ほんの少し赤くなった。

 王国中が恐れる公爵様が、私の一言だけでこんなにも動揺する。告白をしてくれた時も、愛の言葉を囁く時も、結婚しようと言われた時も、みんな知らない私だけの公爵様の顔だ。


「……困ったな」


「何が?」


「ますます君を大切にしたくなった」


 ぼっと音が聞こえるくらい、私の顔は熱くなった。言葉ではあまり言ってくれないアルヴィスが、きちんと私の目を見て伝えてくれた。


「ありがとう、アルヴィス」


「君の意見はもちろん尊重する。私も君との時間を過ごしたいからね。では城は別で使うとして───」


「して?」


「次は、エシュアと二人で過ごせる小さな別荘を探そう」


 嬉しくて思わず笑ってしまった。私の意見も聞き入れてくれて、それでもアルヴィスが私と一緒にいたいと思ってくれて。


「とっても嬉しいけど、購入する前に小さいの基準を教えてね」


 私の言葉の後、黙っていたヨハンが一歩踏み出した。


「旦那様。奥様とのお茶の時間を守るためにも、必ずや購入前にご相談ください」


 私は小さく頷く。アルヴィスは少し考えてから、


「……努力しよう」


 その返事に、私は笑った。ヨハンはむせ込んだしまっていたけれど。


 私のことが愛おしすぎて、城や森まで買ってしまうような重たい公爵様。それでも、重すぎるくらいの愛を、私は嫌いではなかった。むしろ、今では少しだけ誇らしくさえある。これほどまでに私を想い、私が心から安らげる場所を作ろうとしてくれる人が、私の夫なのだから。

 これから先、きっと私たちは何度もすれ違うだろう。アルヴィスは相変わらず、私が少しでも困れば何もかも解決しようとするだろうし、私はそんな彼を止めるために、何度も頭を悩ませるに違いない。

 けれど、もう大丈夫。彼の愛を疑うことも、嫌われるのを恐れて言いたいことを飲み込むことも、きっと少しずつ減っていく。だって、私たちはこれから、何十年も一緒に過ごしていくのだから。


「あと、二人ではなくて、三人で過ごせる小さな別荘を探そうね」


 私の言葉に、落ち着いていたヨハンが今度は盛大にむせ込んだ。


「お、奥様……! それは、つまり……!」


 ヨハンの声をかき消すように、物陰からいくつもの悲鳴にも似た歓声が上がった。どうやら、盗み聞きしていた使用人や騎士たちが、今の言葉をしっかり聞いていたらしい。いつの間にか騒がしくなってしまい、私は思わず頬を押さえた。

 目の前のアルヴィスが、信じられないものを見るような顔で私を見つめていた。いつもはどんな時でも落ち着いていて、私が驚くほど堂々としている人なのに。今はその瞳に涙を浮かべ、何かを言おうとしては言葉に詰まっている。


「アルヴィス……?」


「エシュア!!」


 次の瞬間、彼は私を強く抱きしめた。あまりの勢いに驚いたものの、背中に回された腕が小さく震えているのに気づき、私はそっと彼の胸に頬を寄せた。


「ありがとう……本当に、ありがとう」


 耳元で囁かれた声は、いつになく頼りなかった。きっと彼は、私がどれほど彼を愛しているのか、今でも時折、不安になるのだろう。私が結婚を受け入れてくれたことを奇跡だと言ったように、彼もまた、私の心を確かめることが怖かったのかもしれない。だから私は、彼の背中に腕を回し、今度は自分から抱きしめ返した。


「……こちらこそ、ありがとう」


 あなたが私を愛してくれたこと。私のために、何度も手を伸ばしてくれたこと。そして、あなたの愛を信じる勇気をくれたこと。

 やがてアルヴィスが顔を上げると、目元に涙を残したまま、私に優しいキスを落とした。触れるだけの口づけが、もう一度、今度は少し長く降ってくる。こんなにも愛されているのだと、もう疑う必要はない。

 ──とはいえ。このままでは、生まれてくる子供に何でも買い与えてしまいそうだ。小さな別荘どころか、子供専用の城や庭園まで用意しかねない。いや、きっと本人は真剣に考えるだろう。私はそっと顔を上げ、涙の跡を残した夫を見つめた。


「アルヴィス。子供には、必要なものだけ買ってあげてね?」


「……もちろんだ」


 返事が早すぎる。これは絶対に、わかっていない。


 私は小さくため息をついたけれど、彼の重すぎる愛を、私は嫌いではない。むしろ、これからは私も同じくらいの愛を返していきたいと思う。ただし、城を買う前には相談してもらおう。

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