虐げられた令嬢は狂い咲く〜騎士団長様、一目惚れしたので私を雇ってください!〜
設定が甘いところもありますが、ご都合主義な展開としてお楽しみください。
ユリヤ・アレンディアの人生は数奇なものだった。
彼女が幼い頃、その生活は理想そのものだった。
規模は小さいが豊かなマカイド王国の伯爵令嬢。アレンディア伯爵は領地を正しく治める君主であり、母である伯爵夫人は厳格ながらも公正な人物だった。
平和な国、平和な家庭。
その幸せが崩れ去ったのは、母が病に倒れた五歳の時だった。
マカイド王国の平和を嫉むかのように広まった伝染病は、平民はもちろん、多くの貴族、さらには王族の命までも残酷に奪い去った。全身が腐り落ちるという恐ろしい病に、誰もが故人をまともに見送ることさえできなかった。
一年以上の間、病が収まる気配はなく、ついに王国人口の20%が命を落とした頃、ようやく解毒薬が普及した。
あいにく、不幸というものは時期を選ばず連鎖してやってくるものだ。数十万人の犠牲の末に作り出された解毒薬を狙い、多くの国々がマカイド王国へと攻め入ってきたのだ。
生き残った王族や貴族たちは率先して戦場へ向かい、またしても多くの命が失われた。
父が死んだのは、その戦場だった。
母を失った悲しみを癒やす間もなく、父までもが遠い場所へと旅立ってしまった。幼いユリヤは、あまりの悲しさに死んでしまいそうだった。このまま死んでしまえば、両親のいる場所へ行けるのではないか……そんなことさえ考えた。
叔父がアレンディア伯爵家に転がり込んできたのは、父の葬儀がようやく終わった頃だった。まだ存命だった先代伯爵――ユリヤの祖父が、幼い彼女のために叔父を呼び寄せたのだ。
アレンディア伯爵家は下位爵位を持つ大貴族であったため、叔父は男爵位を持っていると聞いていた。しかし叔父は下位の爵位では満足せず、アレンディア伯爵家のすべてを貪ろうとした。
最初に叔父と叔母、そしてその娘である男爵令嬢が屋敷にやってきた時。表向き、彼らはユリヤを誰よりも慈しむかのように振る舞った。両親を失った悲しみを慰めてくれているかのように見えた。
しかし、老齢だった先代伯爵が亡くなるやいなや、彼らの態度は一変した。
八歳。ユリヤはその日から伯爵令嬢ではなく、アレンディア家のメイドとして生きることを強要された。
最初は不当だと思った。両親と親交のあった貴族たちに助言を求め、王国に抗議の手紙も送った。しかし、時期が悪すぎた。伝染病の余波が消えぬまま続いた戦争は、ユリヤのような不幸な子供をあまりにも多く生み出していた。
反抗もしてみた。拒絶もしてみた。だが悲しいことに、八歳の子供にできることはあまりにも少なすぎた。
結局、ユリヤはすべてを諦め、メイドとしての人生を受け入れた。あまりにも切なくて、毎日のように泣いた。泣いて泣いて泣き続ければ、いつか両親が迎えに来てくれると信じていた。
死んだ人間が迎えに来るはずなどないというのに。
愚かな子供の妄想が打ち砕かれるのに、時間はかからなかった。悲しむ暇もなく与えられる仕事と、それをこなせなければ雷のように落ちる非難の言葉。ユリヤの心は次第に無感覚になり、鋭く研ぎ澄まされていった。
業務が「楽しい」と思えるようになったのは、九歳の冬だった。
最初はまともな箒がけすらできなかった。雑巾がけをすればするほど、周囲が汚れるばかりだった。洗濯をすれば洗濯物はボロ布になり、皿洗いをすれば洗った数より割った数のほうが多かった。
しかし、人間は適応の動物である。
罵倒され、非難されながらも、めげずに業務を続けていくうちに、いつしか箒がけも雑巾がけも、洗濯も皿洗いも、人並みにこなせるようになった。そうなると、さらなる高みを追求したくなった。
汚れとは、耐えるものではない。「不浄なものほど、清らかに」片付けなければならないのだ。それが何であれ。汚れを落とすためなら、何だってできる。
そう、何だって。
「叔母様。このドレスのシミは何ですか」
「ああ、それ? 昨日の夜会でワインをこぼしてしまったのよ。明日までに綺麗に洗って……」
「叔母様。ワインのシミを落とすのがどれほど大変かご存知ですか? ワインというものは、こぼした瞬間に拭き取らなければ、その汚れが生地に染み込み、完璧に落とすのは至難の業なのです。このように乾ききって固まってしまったら……ああ、一体どうやって落とせばいいのかしら!!!」
幼少期から不条理に浸かり続けたユリヤの感覚は、どこか狂っていた。悲しいことに、その歪んだ感覚を正してくれる者は誰もおらず、不当な扱いが加速するたびに、その歪みは決定的な狂気へと変わっていった。
「……でも、そう。これはチャンスかもしれないわ。この不浄さえ消し去れば、私は一段上のステージへ行けるはず」
「ユリヤ? お前、何を言って……」
「集中してるんです、話しかけないでください!!! ああ……この血のように美しいシミ、どうすれば落ちるかしら? 昔の人はどうやってこの汚れを落としたの? 本を読めばわかるかしら? フフッ、これならメイド長だって知らないはず。私ならできる、絶対に。ああ、なんてワクワクするのかしら……。安心してね、ドレスさん。私が必ず……」
ユリヤの独り言は終わる気配を見せなかった。狂気さえ感じさせる彼女の眼光に、叔母の顔は引きつり、青ざめていった。
ユリヤは叔母が後ずさりして逃げ出すのも気に留めず、ワインのついたドレスをうっとりと見つめていた。
翌日。伯爵夫人の寝室に乗り込んできたユリヤは、寝不足で血走った目をしながら、叔母にドレスを突きつけた。
「叔母様!!! この子が見えますか? この純白の色……。フフッ、やり遂げましたわ。いかがですか? あまりにも美しいと思いませんか? 汚れ(ちしお)を抜き取るのは本当に骨の折れる仕事でした。でも、私の手にかかれば不可能はありません。アハハハハ!!! 私は、この子が私に感謝を伝えているのが聞こえました。叔母様にも聞こえますか? 聞こえないんですか? そんなはずないでしょう!!!!!!!」
叔母が気絶するのにかかった時間は、わずか三分。ユリヤの狂気じみた笑い声を聞きつけてやってきた叔父が、真っ青になるまで五分もかからなかった。
その日を境に、叔父はユリヤに伯爵令嬢の地位を返そうとした。しかし、ユリヤは拒否した。綺麗な服を着て座っているだけの伯爵令嬢は、彼女には相応しくないから。
ユリヤが進むべき道は、不浄なものをすべて消し去る純白の道だ。
ユリヤはそのために、何だってできる。一点の曇りもない彼女の白い微笑みに、叔父一家が恐怖で凍りついていたことに、ユリヤは気づかなかった。
気づく必要もなかった。
***
そうして、十年の歳月が流れた。
この十年間、ユリヤは誰よりも素晴らしい掃除のプロへと成長していた。彼女が通り過ぎた後には塵一つ残らず、どんなに汚れた部屋でも、一日あれば壁紙を張り替えたばかりのようにピカピカになった。
自分でも満足のいく業績を積み上げてきた自負はある。しかし、今のユリヤは満たされていなかった。
「このままじゃ、現状維持にすぎないわ。ああ……もっとないのかしら? 私を一段上のステージへ引き上げてくれるような、そんな場所が」
ユリヤの独り言に、離れた場所で掃除を続けていたメイドたちがビクリと肩を震わせた。
長く孤独だったせいだろうか、ユリヤには独り言の癖があった。独り言にしては声が大きく、周囲の人間には筒抜けだったが、屋敷の誰も彼女に返事をしようとはしなかった。
下手に相槌を打とうものなら、恐ろしい目に遭わされることを皆が身をもって知っていたからだ。
メイドたちは必死に視線を逸らし、急いでその場を立ち去った。もちろん、ユリヤがそれに気づくことはない。
「はあ……屋敷が綺麗すぎて退屈だわ」
憂鬱である。埃まみれだった地下室はずっと昔に掃除を終えた。藪だらけだった庭の隅も、人の手が届かない屋根の上でさえ、すでに眩いほどの光を放っているではないか。
どこかにないかしら。私のこの欲求を満たしてくれる、世界で一番不潔な場所。
(そんな場所があったら、どれほど恍惚としてしまうでしょう。人は……そうね、数百人くらいいる空間なの)
そこで寝食を共にして生活しているけれど、忙しすぎて管理がまるで行き届いていない。どこへ行っても埃だらけ、時には汚物のついた服が転がっているの。
まともに洗濯をする暇もないほど忙しい空間。汚れていると知りながらも、それを着るしかない苦痛。
そんな場所を、この手で清めることができたなら……。
想像するだけで体が震えるほどときめく。もしそんな場所があったら、どれほど楽しいだろうか。この十年間、ユリヤが独自に研究してきた数々の掃除技法と洗浄療法を存分に活用するのだ。
(……壊れた箇所も、あるかしら?)
ちょうど修繕の技術も学んでみたかった。腐った板を剥がし、その中を隅々まで整理してから、再び元通りに復元する。ああ……。
幻想にふけるユリヤは、無意識のうちに屋敷の至る所を練り歩き、掃除を続けていた。彼女が通り過ぎた後には、顔が映るほど輝く窓と一点の汚れもない壁、そして注意して歩かなければ猛スピードで滑ってしまいそうな床が残された。
「はあ、はあ……ユリヤ! ここにいたの……うわあああ!」
「あら、叔父様」
ユリヤがツヤツヤに磨き上げた床を急いで走ってきた叔父は、小気味よいほど鮮やかに滑り、床を転がった。
どこへ行ってきたのか、彼の服は土と落ち葉まみれで、その状態で転がったために、床には叔父のあらゆる「痕跡」が残ってしまった。
あら、あらあら。
「叔父様ったら……私が退屈しているのを察して、こんな楽しみをくださるなんて」
ユリヤの顔にパッと明るい笑みが浮かぶ一方で、叔父の顔は真っ青になった。
「ユ、ユリヤ。今そんなことをしている場合ではないんだ。お前に、王城の夜会の招待状が届いた」
「えっ? 私にですか?」
「そうだ。聞けば、王太子殿下の婚約者候補を探すそうだ。未婚の適齢期にある貴族令嬢は全員出席せよという、陛下のご命令だ」
「まあ……面倒な……」
ユリヤに伯爵令嬢として生きていく考えはない。両親が亡くなった後、アレンディア家を実質的に維持してきたのはこの叔父だ。
だらしなく覇気はないが、誠実ではある叔父。どうにか領地を運営できていたため、ユリヤは当主を継ぐ二十歳の誕生日が来たら、爵位を叔父に譲り、自分は一生メイドとして生きるつもりだった。
(あ、そういえば相談してなかったわね)
だからユリヤに、面倒な王城の夜会に出ろという話をしたのだろう。そう納得したユリヤは、にっこり笑って答えた。
「叔父様。私はこの伯爵家を継ぐつもりはありません。二十歳の誕生日まで、あと半年。誕生日が過ぎたら、私は伯爵家を叔父様に譲渡します」
「なっ……何をお馬鹿なことを! この伯爵家を継ぐのはお前だ、ユリヤ」
「掃除しかできない小娘が、どうやって伯爵家を継ぐのですか? すぐに家計が傾きますわよ」
「それは……まともな入り婿を迎えればいい。それまでは私が……いや、とにかく、この伯爵家はお前のものだ。兄上と父上がお前に残した遺産だろう?」
真っ青を通り越して真っ白な顔で冷や汗を流す叔父の姿が、ユリヤには理解できない。なぜあんなに狼狽えているのだろうか。
「私は結婚なんて考えてもいませんもの。あ、そうだ。女伯爵をお望みなら、エレナでもいいでしょう」
エレナは叔父夫婦が連れてきた娘で、ユリヤより一歳年下の妹だった。人見知りな性格ではあるが、根はいい子だし、反面教師である両親を見て育ったせいか、しっかりした性格だ。彼女なら十分に伯爵家を維持してくれるだろう。
「未婚の適齢期ならエレナも条件を満たしていますから、私の代わりに出ればぴったりです! そして私はこの家で、一生メイドとして暮らすのです。ウフフフフ……」
「なれるわけないだろうが!!!」
呑気すぎるユリヤの答えに、ついに叔父が怒鳴り声を上げた。そこへ、遅れて廊下に入ってきたエレナが、叔父と同じくらい青ざめた顔でユリヤの腕を掴んだ。
「お姉様、そんなことをおっしゃらないでください。私は、お姉様にこそこの伯爵家を継いでいただきたいのです。夜会も……そう、結婚のためではなくても、一度くらいは行ってみるのが良いと思いますわ」
「そ、そうとも。その通りだ。お前は王城へ一度も行ったことがないだろう? だから……そうだ! あそこのメイドたちは皆、掃除の達人だ。お前の知らない驚くべきスキルが見られるのではないか?」
「そうですわ! 王城は本当に美しく精巧な装飾品が多いのですが、細かい部分まで完璧に掃除されているのです。王城に比べれば、この屋敷なんて納屋レベルですわよ」
「エレナ。いくらなんでもそれは……」
「お父様は黙っててください!」
確かに。王城は伯爵家とは比べものにならないほど大きく、美しい装飾品や精巧な細工が溢れているだろう。その分、掃除も難しいはずだ。王族が歩く空間なのだから、掃除は非常に専門的なはず。きっと数百人ものメイドたちが丹精込めて整えているのだろう。ユリヤの知らない技法や技巧があるかもしれない。
(そう思ったら、行ってみたくなったわ)
ユリヤの瞳に宿った迷いを読み取ったエレナが、微笑んで彼女の腕をぎゅっと握った。
「とにかくお姉様。私はお姉様と一緒に、絶対、絶対に夜会へ行ってみたいのです。私の願いを聞いてくださいますか?」
「うーん……エレナがそこまで言うのなら……」
「やった! お父様、すぐに姉様のドレスを仕立てましょう。お姉様、夜会は一週間後です。その間にドレスとアクセサリーを揃えて、お肌の手入れもして、それから……」
自分と一緒に夜会に行くのが、そんなに嬉しいのだろうか。
今のエレナは、ユリヤが新しい掃除用具を手に入れた時と同じような表情をしていた。妹が喜んでいるのなら、まあ、いいことだわ!
***
瞬く間に一週間が過ぎ去った。この一週間、ユリヤは人生で最も忙しい日々を過ごさねばならなかった。ドレスを新調し、貴族令嬢としての最低限の礼法を叩き込まれる。
一体全体、なぜ貴族令嬢はこれほどまでに無意味な礼法やダンスを学ばなければならないのか? この息苦しいコルセットは何? こんなものを着て、どうやって食事をしろというの?
ドレスはなぜこれほどまでに歩きにくいのか。ハイヒールは武器か何かなのか? いざという時に身を守るための?
他のことはともかく、コルセットだけは許容できない。こんな凶器を纏わせるというのなら、王命だろうが何だろうが絶対に夜会には行かないと彼女は言い放った。
叔父と叔母は泣きそうな顔をしたが、エレナは「お姉様は腰が細いから大丈夫ですよ。これくらいなら技術力で解決できますから」とユリヤの味方をしてくれた。やはり優しい妹である。
どうせこうなったのなら礼法も学ばなくていいのではないかとエレナに提案した。どうせ王城の夜会で彼女に話しかける者などいないだろうし、自分はメイドたちがどう掃除しているかを見てくるだけなのだから。だが残念ながら、礼法だけはエレナも首を振って拒絶した。
「下位貴族ならまだしも、侯爵家以上の高位貴族や王族の方々に礼を欠けば、不敬罪で罰せられてしまいますわ」
「本当に? 面倒だわ。エレナ、私、本当に行かなきゃだめ?」
「お姉様はすでに私と一緒に夜会へ行くと約束なさいました。ですから、行っていただかなければなりません。あ! それから、貴族の令息がダンスを申し込んできたら、絶対に断ってはなりませんよ!」
「え? なぜ?」
「それは……そう、これもマナーなんです。オホホ。特に、二回以上ダンスに誘ってくださる方がいたら、なおさら断ってはなりませんわ」
礼法とは、これほどまでに 厄介なものだったか。社交界に一度も出たことのないユリヤは、一人の相手と何度も踊ることが一種の求愛行動であるということを、露ほども知らなかった。
当然、叔父一家が彼女にまともな婿候補を見繕うために、外見を整え礼法を教えていることも知る由もなかった。
(お願い、お願いだからお姉様が良い人と出会って、正気に戻ってくれますように……!)
幼い頃のエレナは、自分がアレンディア伯爵令嬢になれるのではないかと考えたことがあった。両親を亡くし一人になったユリヤ姉様は可哀想だった。それでも、彼女さえいなければエレナが伯爵令嬢になれる。
だから、冷たく当たろうとしたこともあった。
だが、幼すぎる時期に不幸が立て続けに襲ったせいだろうか。あるいは母親の無意味な嫌がらせのせいだったのだろうか。
幼い頃から様子がおかしくなってしまった姉は、年を追うごとに良くなるどころか、ますます狂気に染まっていった。掃除に対する異常な執着、シミを見ただけで恍惚とする表情。
家を掃除するだけでは飽き足らず、今や幻想の中のどこかまで狂ったように掃除してしまう彼女の姿は、恐怖そのものだった。
小さくみすぼらしくとも、豊かで静かだった男爵家の屋敷が恋しくなるとは、夢にも思わなかった。
エレナとその両親は、一日も早くこの伯爵家を出たかった。この十年間、ユリヤが爵位を継承する二十歳になる日だけを待ちわびてきた。しかし、ユリヤ一人では領地を運営できないということに、彼らは後になって気づいたのだ。
特に、年を重ねるほどにユリヤが伯爵令嬢としての最低限の品格すら持ち合わせていないことは、彼らにとって大きな問題だった。
このままでは伯爵位を継承できない。万が一、自分たちが伯爵位を継ぐことになれば、これからもずっとユリヤと顔を合わせ続けなければならない。それだけは御免被りたい。
妙齢の女性をすべて招待する王城の夜会が開かれることになったのは、神が与えた好機だった。多少強引であっても、何とかしてユリヤ姉様を夜会へと送り出す。ユリヤはそれなりに整った容姿をしているから、彼女に求婚する令息も多いはずだ。
(本性を知られる前に結婚させてしまえばこっちのもの。貴族にとって離婚は許されないのだから)
何としてでも書類にサインさえさせればいい。押し切るためには、爵位は少し低めの方がいいだろうか。伯爵家は上位貴族とはいえ、侯爵家や公爵家が声をかけてくる確率は低い。同格の伯爵家の次男や三男あたりなら……。
(ふふっ……お姉様の狂癖を治してくれる人なら、誰でもいいわ。どうか運命の王子様が会場に存在しますように)
大規模な夜会が始まった。ユリヤは期待半分、面倒くささ半分の心境で王城に足を踏み入れた。そして一歩足を踏み入れた途端、面倒くささは恍惚へと、期待は歓喜へと変わった。
「わあ……なんてこと……」
あまりにも美しい! たった一日掃除をしないだけで埃が積もりそうな、針の穴のように細かな細工の数々! 床に敷かれたラグは、今すぐ横になって眠れるほどに清潔だ。
毛足の長いラグほど手入れが難しいはずなのに、毎日毎日管理しているなんて。なんてやりがいのある仕事かしら! 遥か高くに吊るされたシャンデリアはどう? ああ、燭台がどうしてこんなに輝いているの!
「あまりにも美しいわ……」
精巧で美しく、 気難しく手のかかるすべてのものが、王城には存在した。しかし、そのどれ一つとして微かな埃もこびりついた汚れもなく、作りたてのように清らかだった。さらに、この空気。
(清々しいわ)
王城は広い分、流動人口も多いと聞いていた。人が頻繁に行き来する場所は空気が濁るものだが、どうしてこれほど清々しく管理できるのか。空気に微かに染み込んだ花の香りが、人の心を穏やかにさせる。
確かに、普段なら決して身につけない不自由なドレスと、いざという時の凶器として使うハイヒールで重武装をしてまで、来てみる価値のある場所だった。
もし自分がここで働くことになったらどうだろう。想像するだけで心地よい喜びに、顔いっぱいに笑みが浮かんだ。
五歩進むごとに立ち止まり、王城の廊下を鑑賞しながら進んだため、アレンディア一家がメインホールに入ったのは、かなりの時間が経過してからだった。
社交界に初めて顔を見せる伯爵令嬢へと注目が集まったのも束の間、ユリヤはそれなりに綺麗ではあるが、目を奪われるほど美しくはなかった。むしろエレナの方が可憐で美しかったため、ユリヤに向けられるべき視線はエレナへと流れてしまった。
普段ならこれほど埋もれることはなかっただろう。だが、今日は王太子の花嫁を選ぶための夜会だ。令嬢たちも令息たちも、目を皿にして「使える」結婚相手を探すのに必死だった。
エレナもまた標的の一人だったため、瞬く間に姉とはぐれてしまった。おかげでユリヤは自由に会場を歩き回り、内部を見物することができた。
「良い夜ですね、アレンディア伯爵令嬢」
「えっ? ああ、はい」
いくら埋もれているとはいえ、未婚の伯爵令嬢である。優良株を狙うハイエナはどこにでも存在するため、会場の隅を重点的に回り、掃除の状態を注視しているユリヤに声をかける令息も数人いた。
「アレンディア伯爵令嬢がこれほどお美しいとは知りませんでした。なぜもっと早く社交界に出られなかったのですか? 噂では叔父一家があなたを虐げていると聞きましたが……」
「それは誤解です。叔父様も叔母様もエレナも、皆優しい方々ですよ。それより……その、何だ。そうだ。令息が今日お召しになっているその服は、どなたが洗濯されたのですか?」
「はい?」
「洗濯の腕が本当に素晴らしいわ! ああ、白い繊維は汚れやすく、シミもなかなか落ちないものです。ですが、この美しい洗濯の仕上がり。本当に胸が高鳴りますわ」
「あの……アレンディア令嬢?」
「何度も何度も水ですすいだのでしょう。手が荒れるほどに。それでも令息のために、この美しい生地のために、じっと耐えたのでしょう。はあ……羨ましくて仕方がありませんわ」
「あ……あはは。そ、そうですか。あの、申し訳ありません。急に用件を思い出したので」
恍惚とした表情で令息――正確には令息の着ている服を凝視しながら、まくし立てるように語るユリヤの姿に、令息の顔が真っ青になった。引きつった笑みを浮かべた令息は、逃げるようにその場を去った。
ユリヤは不思議そうな顔で令息をしばらく見送った後、すぐに視線を隅の方へと戻した。名もなき令息の気分を考える暇があるなら、この美しい掃除の状態を少しでも長く目に焼き付けておかねばならなかったからだ。
どこかでエレナの悲鳴が聞こえたような気がしたが、気のせいだろう。
***
そうして、どれほどの時間が流れただろうか。見て楽しむ分には十分に堪能した。やはり、多くの人々が行き来する宴会場であっても、その清掃状態は素晴らしい。
特に、数百人が行き来して埃や汚れが生じるたびに、どこからともなく現れたメイドたちが魔法のように清潔さを取り戻していく様は、まさに神の領域と言っても過言ではなかった。あの身のこなしは学ぶ価値がある。
しかし、それだけだ。美しく、やりがいのある場所ではあるが、王城のメイドは誰でもなれる職業ではない。
ユリヤのような小さな屋敷で細々と働くメイドが、決して届かぬ場所。手に入らないものに興味はない。そう思うと、この輝かしい空間が急激に色褪せていくような気がした。
つまらない。もう家に帰りたい。ユリヤが退屈そうに周囲を見渡した、その瞬間だった。
「あら、泥だらけの公爵様がいらしたわ」
「クスクス。ひどいわね、それ不敬罪よ」
「でも事実でしょう? 騎士団長のくせに、明け暮れ平民たちと泥遊びばかりしているんですもの。今日も見て、あの汚らしい服」
「本当に……。クスクス、灰かぶりの王弟殿下らしいわね」
ユリヤの周辺に立っていたきらびやかな令嬢たちが、扇で口元を隠しながら会場の中央を見つめていた。彼女たちの視線を追うと、ちょうど会場に入ってくる一人の男が見えた。
長身でバランスの取れた体格。精巧な顔立ちは、王城の回廊で見た彫像のように立派だった。しかし、その顔には深い疲労が刻まれており、貴族らしからぬ短く切りそろえられた髪は、灰に近い銀色で、文字通り灰を被ったような印象が強かった。
確かに正装してはいるものの、どこか薄汚れた感じがするのは、彼が着ている黒い服に付いた土埃のせいだろうか。黒い服なので目立たないだけで、血と思われる変色したシミも付着していた。
夜会に来るにしては、あまりにも整っていない姿だった。だが。
(……なんてことっ!)
ユリヤの心臓が激しく脈打った。生まれて初めて見る、美しい姿だった。手入れが行き届かずパサついた灰色の髪。生気のない肌に、質の良い服でありながら水だけで急いで濯いで着たかのような損傷具合。
(私はなんて馬鹿なの! 騎士団……なぜその考えが浮かばなかったのかしら!!!)
終戦後、マカイド王国の騎士団は、国を守るというよりは、伝染病と戦争によって疲弊した王国情緒を復旧させることに力を注いでいると聞いていた。
その中でも第一騎士団は国王直属の親衛部隊であり、本来なら王宮の外で民生支援業務を行うことなどなかった。
しかし、国王と仲が良くない騎士団長であり王弟でもある公爵は、国王の命により平民たちと共に復旧作業を続けていると聞いたことがある。当然、支援は最低限。業務は常に忙しく、騎士というよりは日雇い労働者に近い生活。一着の服さえまともに管理できないのだとか。なんてこと。
あまりにも、あまりにも。
「あまりにも美しいわ!!!!!!!」
ユリヤの悲鳴混じりの叫びに、騎士団長に集まっていた視線が一気にユリヤへと注がれた。叔父夫婦とエレナの顔が真っ白になるのが視界の端に映ったが、彼らを気にしている余裕はなかった。
吸い寄せられるように騎士団長へと歩み寄ると、海のように深い彼の瞳が大きく見開かれているのが見えた。その姿さえも絵画のように美しい。ユリヤは騎士団長を――正確には彼の服を――見つめ、熱に浮かされたような声で言った。
「一目惚れしました。どうか私を雇ってください!!!」
会場に響き渡るユリヤの言葉に、騎士団長はもちろん、周囲の貴族たちまでもが目を見開いて彼女を注視した。支離滅裂な言葉を聞いた騎士団長が、呆気にとられた表情で聞き返した。
「……何だと?」
「言葉通りです! あなたに一目惚れしました! このボロ布のような服と、パサパサの髪、目の下のクマ。あなたの騎士団に行けば、私はきっと天上界の生活を……」
「ユ、ユリヤ!!!」
危ない。これは言ってはならない言葉だ。ユリヤの叔父が彼女に駆け寄り口を塞いだが、すでに言うべきことはすべて出た後だった。
ユリヤは何をするのかと不満げに眉をひそめたが、真っ青になった叔父はユリヤを見ようとしなかった。彼は即座にユリヤと共に膝をつき、頭を下げた。
「申し訳ございません、オンシュタイン公爵閣下! 私の姪が不敬な発言を……この子は幼い頃に両親を亡くし、精神を少し病んでしまったのです。もちろん、教育が至らなかった私の責任です。どうか、家族だけは……」
「ちょっと待ってください、叔父様。何を言っているのですか? 私がいつ不敬な発言を。それに、私の頭は正常ですよ」
「今も言っているではないか! お願いだから黙っていてくれ」
一体何が不敬だというのか。叔父様は理解に苦しむ……あ、そうか!
「もう、叔父様ったら。早く言ってくださればよかったのに」
「そ、そうか。理解してくれたのか。よかった……」
不満げに膝をついていたユリヤは、不意に何かを悟ったように手を叩くと、弾かれたように立ち上がって騎士団長――公爵の襟元を掴んだ。
「初対面で大変失礼いたしました。私の実力を知らないのは当然のこと。ご安心ください。こんな時のために、ユリヤ特製応急処置キットを持ってきましたから!」
ボリュームのある腰のリボンに応急処置キットを忍ばせてきたのは、まさに神の一手だった。
「さあ、騎士団長さん。いえ、公爵様? とにかく服を脱いでください!」
「ユリヤ!!!」
「静かにしてください! 集中しなければならないんです!」
今すぐ口を閉じるべきなのが誰かも分からないまま、公爵の上着をひったくったユリヤは、リボンの間から二つの薬瓶を取り出してにっこりと笑った。
「心配いりません。この子は生地の損傷を最小限に抑えつつ、あらゆるシミを除去してくれる健気な子なんです。こうして服に振りかけて!」
ボロボロになった服に薬瓶の液体をたっぷりと振りかけたユリヤは、そのまま服をパタパタと払った。そして二つ目の薬瓶の栓を抜きながら言葉を続けた。
「この子は、その場ですぐに服を乾かしてくれるお利口な子なんです。このまま振りかければ、ジャジャーン! 洗いたての綺麗な服の完成です!」
言い終えたユリヤは、自ら公爵に上着を着せかけた。ユリヤの応急処置キットは言葉だけのものではなかったようで、公爵の服は以前とは比べものにならないほど清潔で艶を放っていた。
知らず知らずのうちに付着していたシミも土埃も消え去ったのはもちろん、シワまで綺麗に伸びて、まるで仕立てたばかりの服のようだった。驚くべき威力に、公爵はもちろん、周囲の貴族たちまでもが目を見開いた。
存在感を消していたメイドたちでさえ、隠密スキルが解けてしまうほどだ。皆にこんな姿を見せられるなんて、誇らしさで自然と肩が上がる。
「応急処置ですので少し至らない点もありますが、それは改良の余地があるという意味で受け取ってください」
「……まず、一つ聞きたいことがある」
ユリヤの鮮やかなパフォーマンスを黙って見ていた公爵が、ゆっくりと口を開いた。ユリヤが明るい顔で尋ねた。
「何でも聞いてください!」
「君の名は?」
「あら、まあ! 私としたことが。紹介が遅れて申し訳ありません。私はユリヤ・アレンディア。アレンディア伯爵令嬢です。隣にいる騒がしい方は、私の後見人で叔父のクラーグ男爵です」
「騒がしいのが誰だか、本当に分かっていないのか……」
叔父の呟きが聞こえてきたが、ユリヤは爽やかに無視した。諦めたように立ち上がった叔父も挨拶を交わした。
「ユリアード・クラーグです。オンシュタイン公爵閣下にお目通り叶い、光栄です」
「紹介に感謝する。私はガレン・ディウェル・マカイドだ。本題に戻ろう、アレンディア伯爵令嬢。騎士団に雇ってほしいと言っていたようだが」
「はい! 察するに騎士団は人手不足でしょう? 服の状態を見れば分かります。掃除、洗濯、皿洗いはもちろん、健康を守る料理、古着を新品に変える裁縫まで! このユリヤは何でもできるのです」
ユリヤの答えに、ガレンの瞳が細められた。彼の視線がユリヤの隣にいる叔父へと向けられ、再びユリヤへと戻った。
「君の言う通り、騎士団は絶望的な人手不足だ。支援も望めず、給料もまともに払えない。それでも君は、騎士団に雇われることを望むのか?」
「もちろんです! 三食の食事と雨風を凌げる部屋さえいただければ、給料は望みません」
「君は伯爵令嬢だ。なぜ自ら茨の道を行こうとする?」
「それは公爵様も同じではありませんか?」
「……何だと?」
「よく言いますでしょう。高い場所にいる者こそ、最も低い場所にいる者を助けるべきだと」
最初は彼が着ている服に惚れた。このボロ布なら、ユリヤのすべての欲求を満たしてくれるだろう。
「公爵様は誰よりも高貴な方です。最強の剣術を持つ騎士団長でもあります。ですが」
平和が訪れるやいなや真っ先に剣を置き、民生を顧みる。最も低い場所にいる弱者に、誰よりも先に手を差し伸べる。
支援もなく後ろ指を指されても、その手を離さない。それは誰にでも簡単にできることではない。
「私は、高潔な心を持つあなたを助けたいのです。私なら助けられます。汚れているという汚名を、綺麗に拭い去って差し上げましょう」
誰よりも汚れた場所で、誰よりも多くの汚名を背負いながら、決して折れることのない眩しい人。どうして惚れずにいられるだろうか。どうして助けずにいられるだろうか。
ユリヤの答えに、ガレンは呆然と口を開けた。そして。
「ふっ……はは……あはははは!!!」
大きな笑い声が会場に響くと、今度は全員の視線がガレンに注がれた。何がそんなに楽しいのか、細めた目尻に涙を浮かべていたガレンは、涙を拭いながら尋ねた。
「令嬢。本当に私に雇われたいのか?」
「もちろんです」
「令嬢としての生活は送れなくなるぞ」
「そんな生活、望んだこともありませんから」
「過酷だぞ」
「楽しそうですね」
「簡単には手放さないつもりだ。後悔しないか?」
「むしろ望むところです」
「私に雇われるためには、一つ条件がある。受け入れられるか?」
「何なりとおっしゃってください」
「私と結婚してくれ」
***
「ガレン、誰よりも高い場所にいるお前が、民のために犠牲になる必要はない。お前は戦争で十分に大きな功績を立てた。これからは平穏に生きていいのだ」
「いいえ、兄上。飢饉と戦争によって、民は疲弊しきっています。こういう時こそ、高い場所にいる者が民を慰めるべきなのです」
遠い昔、ガレン・ディウェル・マカイドが住むマカイド王国は平和な場所だった。
しかし、相次いで起こった飢饉と戦争は、数多くの人々の命を奪い、生活を無惨に破壊した。
飢饉と戦争が終わっても、一度壊れた生活は容易には戻らない。誰かが彼らのために動かねばならない。誰かが彼らを助けなければならない。
だが、彼らを助けるにはマカイド王国はあまりにも危うい状況にまで追い込まれていた。戦争の爪痕で人手は絶望的に不足し、国庫は危険な水準だった。
これ以上貴族から徴収すれば内乱が起きかねない。民に施すことさえままならないのだ。
しかし、誰かがやらねばならない。
騎士団長として、王弟として。国を思う一人の民として。ガレンは王国のためにできるすべてのことをした。金がないなら体で動けばいい。
ガレンの功績により、国は平和を取り戻した。剣を使う必要がなくなると、鍬とシャベルを手に取って民を世話し、廃墟となった村を復旧させた。
一年、二年……荒廃した村は果てしなく多く、支援なしに一つ一つ復旧を続ける作業は遅々として進まなかった。
しかし、ガレンは諦めなかった。
貴族たちが自分を何と呼んでいるかは知っている。大したことではなかった。自分のしたことを誰にも知られなくていい。それによって民の生活が安定するなら、それでよかった。
ただ……。
(少し疲れたな)
終わりのない業務。今年に入って騎士団を辞めた人数だけで五人。
人手は常に不足しているが、補充される者はいない。支援が足りないため、雑用係を雇うことさえままならない。
辞めた騎士たちを責めるつもりはなかった。
すべてを自分たちでこなさなければならない生活は、誇り高き騎士たちに意欲を喪失させるには十分だっただろうし、満足な給料も払えなかったため、申し訳ない気持ちが先立つばかりだった。
あと何年、このような生活を続けなければならないのか。自分を整える時間さえない。婚期さえ逃した彼に残されたのは、名ばかりの公爵位と、果てしなく続く重い責任だけ。
最近、仕事が多すぎたせいだろうか。少し疲れてしまった。
休みたいと考えながらも、ガレンはいつものように業務を続けた。最近、王城付近の村に人間を食らう野獣が出るという報告があった。野獣を仕留め、顔に付いた返り血を拭う。
そういえば、今日は王太子の花嫁を探すための夜会だったか。話があるから必ず夜会に出席しろと、兄上が念を押していたのを思い出す。
ガレンは着替える時間さえ惜しみ、作業の時に着ていた騎士服のまま会場へと向かった。どうせ自分に話しかける令嬢などいない。兄上に挨拶を済ませ、用件だけ聞いて立ち去ればいい。
そう考えていた時だった。
「あまりにも美しいわ!!!!!!!」
一人の令嬢の甲高い叫び声が聞こえてきた。驚いて反射的にそちらへ視線を向けると、ガレンを真っ直ぐに見つめる一人の令嬢と目が合った。
燃えるような真紅の髪を端正に編み込んだ妙齢の女性は、金色の瞳を輝かせながらガレンへと近づいてきた。目をしばたたかせて彼女を見下ろすと、口にした言葉はとんでもないものだった。
「一目惚れしました。どうか私を雇ってください!!!」
(は?)
一体、この令嬢は何を言っているのだろうか? 初対面で求婚されたのも驚きだが、その後の言葉がおかしい。
当惑して瞬きをしていると、彼女はいきなり彼の上着をひったくり、瞬く間に綺麗にしてしまった。
この世から消え去ったはずの魔法が、本当に存在したのだろうか。信じられない光景に思わず口を開けていると、目の前の令嬢が誇らしげに肩をそびやかしているのが見えた。
彼女、ユリヤ・アレンディアは、驚くほど愛らしい女性だった。行動はもちろん、言葉の一つ一つが彼の心に突き刺さった。
疲れ果て、汚れた心を綺麗に拭い去ってくれる。闇の中に沈んでいく自分に、手を差し伸べてくれるような気分だった。
一目惚れしただと? それはこちらの台詞だった。
本能が彼女を逃してはならないと告げていた。衝動的なプロポーズに、ユリヤの目が丸くなった。そんな姿さえ、たまらなく愛おしかった。
「あの、公爵様? 申し訳ありませんが、もう一度だけおっしゃっていただけますか?」
「ガレンと呼んでくれ。君に惚れた。結婚してほしい」
「ええっと……つまり、ガレン様? 先ほど私が騎士団に雇われるためには条件があるとおっしゃいましたよね? それがプロポーズだと?」
「そうだ」
「よろしいのですか? 私は貴族としての礼法も知りませんし、爵位も公爵様に嫁ぐには相応しくないのですが」
「構わない。君は私の傍で騎士団の業務を手伝ってくれればいいのだから」
「あは! いわゆる契約結婚というわけですね。理解しました。私でよろしければ喜んで」
真理を悟ったかのように瞳を輝かせるユリヤ。先ほどの「惚れた」という言葉は聞こえていなかったようだ。
あるいは、聞いた上で流されたのか?
そんな姿もあまりに愛らしいが、少し拍子抜けしてしまう。
(まあ、構わないか。求婚は承諾されたのだから。これから伝え続けていけばいいだけだ)
女性への接し方など知らない。それでも、傍にいてくれるなら、いつか心を開かせることができるだろう。
ユリヤの平然とした承諾に、彼は彼女の腰を引き寄せた。予想外の展開だったのだろうか。ユリヤの顔が赤く染まった。ああ、このまま彼女に口づけをすることができたら、どれほど幸せだろうか。
衝動を理性で抑え込み、ガレンは顔を向けて会場に設置された壇上を見上げた。いつからこの騒動を見守っていたのか分からない兄上、マカイド国王と視線が合った。甥である王太子が口を押さえて笑いを堪えているのが見えたが……大したことではない。
「兄上、ご覧の通り。先ほど私はこの令嬢に求婚し、彼女はそれを受け入れました。どうかこの結婚をお許しいただけますか?」
ガレンの言葉に、貴族たちはようやく国王が壇上に立っていることに気づき、慌てて跪き、礼を尽くした。気にするなというように手を上げた国王が、笑みを帯びた声で尋ねた。
「まさかお前がこのような場所で公開プロポーズをするとはな。ガレン、本当に良いのだな」
「もちろんです」
「ではアレンディア令嬢。そなたは古くから叔父一家に虐げられてきたと聞いている。ガレンに嫁ぐならば、それ以上の苦行が続くことになるだろう。それでも良いのか?」
「陛下、お言葉ですが申し上げます。私は叔父一家に虐げられたことなど一度もなく、彼らはいつも私を愛を持って慈しんでくれました。また、私はガレン様のためなら何でもできます。何より、掃除は苦行ではなく悦びなのです!」
熱意を通り越して狂気すら感じさせる答えであったが、ガレンには愛らしい囁きにしか聞こえなかった。
出会って数分も経たないうちにこれほどまでの感情を抱く自分自身に寒気がしたが、だからといって愛おしさが収まるわけではなかった。
「ガレン、今日の夜会で余はお前に、本来持つべき地位と権利を返そうと思っていたのだが」
「必要ありません。代わりに彼女をください」
「ふふっ……ははは! 割れ鍋に綴じ蓋(天生縁分)だな。お前がこれまで結婚しなかったのは、アレンディア令嬢に出会うためだったのか?」
「そうだったのかもしれません。陛下、では」
「良いだろう。結婚を承認する。主賓は余が務めよう。アレンディア令嬢。そなたは今日からオンシュタイン公爵夫人となる。異議はないか?」
「ございません」
「ガレン。アレンディア伯爵令嬢は、今日からお前の妻となる。異議はないか?」
「ありません」
「結婚式は後日、二人が望む日に執り行うものとするが、二人がこの時間をもって夫婦となったことを宣言する」
国王の言葉が終わるやいなや、雷鳴のような拍手が沸き起こった。すべての物事がうやむやに進んだ感は否めないが、ガレンは気にしなかった。ユリヤもまた、気にしていない表情だった。彼女が瞳を輝かせて尋ねた。
「それならば、私たちはこれでお暇してもよろしいでしょうか?! 一刻も早く騎士団へ行き、状態を確認したいのです!」
「ぶふっ!」
ユリヤの言葉に、必死で笑いを堪えていた王太子がとうとう吹き出した。貴族たちは呆れ顔だったが、ユリヤは国王だけを見つめ、目を輝かせている。
それに対し、国王は口角を上げて頷いた。
「よかろう。ガレン、もう下がってよい。結婚祝いは近いうちに騎士団へ送るとしよう」
「感謝いたします、陛下」
「おめでとうございます、叔父上。アレンディア令嬢、お幸せに」
「ありがとう」
「ありがとうございます! ではガレン様、今すぐ騎士団へ連れて行ってください! やるべきことが山積みな予感がしますわ!」
結婚して早々、騎士団に行きたいだなんて。私の妻は一体どれほど愛らしくなるつもりだろうか。愛する妻にしてあげたいことは山ほどある。
だがその前に、彼女の願いを真っ先に叶えてやらなければならないだろう。
彼女との愛の物語は、ここから始まるのだから。




