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【現代】短編ホラー

アスファルトの水面 〜誘うネオンの少女たち〜

作者: 夏灯みかん
掲載日:2026/02/10

 スマホの画面が暗くなるたび、指で起こした。警察からの連絡を待っている。

 ――娘の美那が家を出て行方知れずになって、もう一週間だ。


 暗い室内には、窓に当たる雨音だけが響いている。――梅雨入りしてしばらく経つ六月の空は日中でも薄暗く、肌寒い。あの子はどこかで凍えていないだろうか。


 美那がいなくなった当日の夜、私はあの子と喧嘩をした。

 きっかけは、「美那がバイトをしたい」と言ったこと。


「友達がバイトをしているお店が人手不足みたい。週一から入れるみたいだから、働いてみたい」


 美那はそう言った。


「どんなお店?」


「駅前のカフェだよ。チェーンの」


 私は眉間に皺を寄せた。駅前の客層はいいとは言えない。変な客に目をつけられるようなことがあったら、心配だ。


「――あなた、部活もやってるし――、もう二年生なんだから、塾も考えないとでしょう。バイトなんかしなくても、必要ならお小遣いあげるから……」


「……お小遣いはいらないよ。もう十分もらってるし……、ママも大変でしょ?」


 今、思い返せば、美那は私のことを気づかってくれてたんだと思う。

 けれど、私は『ママも大変でしょ?』のひと言に、言葉を荒げてしまった。


「――奨学金なくなって、あなたを大学に行かせてあげるくらいの貯金だってあるし、別にあなたが、気にすることじゃないわよ!」


 我が家は、私と美那の二人きりの母子家庭だ。……美那が生まれた時から。

 私は美那を生んだのは高校三年のときだ。まだ十七歳だった。

 

 正直に言えば、それから今まで、大変だった。――けれど、美那の前では、大変じゃなかった。 私は美那には絶対に苦労をさせたくなくて、習い事でも進学でもやりたいことは全部させてあげられるようにと、頑張ってきたつもりだった。――けれど、それを美那には見せてこなかったつもりだった。私のことを重荷に感じてほしくなかったから。美那のためを思えば、私は別に『大変』なんかじゃなかった。

  

 ……けれど、『ママも大変でしょ?』の言葉は。

 大変じゃなかったけれど、大変だったという私の矛盾した気持ちを刺激する言葉だった。


 私の返事に、美那は表情を歪めた。


「奨学金の話は、今はしてないじゃん。――ありがたいと思ってるよ! けど、週一くらいならバイトしても……」


「大学に入ってからしたらいいんじゃない? 高校生なんて時給安いし、働くだけ無駄……」


 美那は頭を抱えて、叫んだ。


「“無駄”って言わないで!!!!」


 それから、自分の部屋に駆け込んでしまった。

 私は呆然として、ソファに座り込んだ。

 こんなふうに美那が反抗するのは、初めてで、どうしていいかわからなくなってしまった。


 その時、床に置きっぱなしになった美那の手帳が目に入った。

 私はふらふらと、その手帳に手を伸ばした。


 ――バイトに誘った友達は、誰……?

 ――最近、何かあった……?


 手帳を開いた時、キィと扉の開く音がした。

 はっと顔を上げると、美那が黒い瞳で私を見つめていた。


「美那……」


 私は娘の名前をつぶやくと、開いたままの手帳を慌てて閉じ、元あった場所に戻した。

 美那は「最悪」とつぶやいて、扉を閉めた。


 ――それが、私が美那を見た最後だ。


 翌朝、目が覚めたら、机に書き置きがあった。『早めに家を出ます』と。

 

 昨日の夜、気まずい空気になってしまったので、朝早めに学校に行ったのだろうと思っていた。

 帰ってきたら、夜は、美那の大好物のお寿司でも一緒に食べに行こうかと思い、メッセージを入れた。


『昨日は、ごめんね。今日、仕事早めに帰るから、夜はお寿司に行こう』


 ――けれど、メッセージはいつまでも既読にならなかった。

 心がざわついて、仕事を早退した私は、家で美那の帰宅を待った。

 美那は合唱部に入っている。

 その日は部活のある日だったけれど、部活でも十八時には帰ってくるはず――そう思って、待っていたけれど、いつまでたっても帰ってこない。


 学校に電話を入れたところ、心臓が止まりそうになった。


『美那さんは、今日は、お休みされました。同級生に、『風邪で休む』と連絡があったようで』と、担任にそう言われた。


 私は美那に渡しているはずの見守りGPSを起動した。

 ――GPSの位置は、我が家を示していた。


 ……美那はどこへ?

 私は震える手で警察に電話をした。


「娘が帰ってこなくて……! 高校二年生なんです」


 そう訴えた途端、向こうの空気が変わったのが、声でわかった。


「最後に姿を確認したのは、いつですか」


「昨夜です。……喧嘩をしてしまって」


 少し、間が空いた。


「今朝、登校はしていますか?」


「いえ。学校のお友達あてに、『風邪で休む』と連絡があったそうです……。スマホは持って行ったようなので、本人からだと思います」


「なるほど……」


キーボードを打つ音が、電話越しに聞こえた。


「お母さん、今からお時間ありますか?」


「はい」


「一度、こちらに来ていただいて、行方不明者届を書きましょう」


『行方不明』の言葉に、心臓がぎゅっと押しつぶされるような気持ちになった。


「……家出、ですよね?」


「現時点では、そうですね。――ただ未成年ですし、状況的にも、早めに動いた方がいいと思います」


 私は電話を切ると、しばらく呆然と自分以外誰もいないリビングの壁を見つめた。

 美那が家に帰ってこないという事実を、風邪で休む頭が理解できていなかった。

 ふらふらと上着を羽織り、警察署に向かうと、言われるがまま、届け出を出した――。



 美那がいなくなった朝から、もう六日も経ってしまった。

 私は仕事に行けずに、ずっと警察からの連絡を待っている。

 待ちきれずに、一日一回、確認の電話を入れてしまう。



 二日目、「現時点では、まだ新しい情報は入っていません」

 三日目、「自宅周辺の防犯カメラでは、それらしい映像は確認できていません」

 四日目、「お嬢さん、交友関係で気になる点はありませんか?」

 

 私は美那の机の引き出しをひっくり返した。

 ――けれど、役に立ちそうな情報は、何もなかった。


 五日目、「お母さん、念のためお伝えしますが……見つかるまで時間がかかることもあります」

 

 生きた心地がしなかった。

 今までずっと、この家は、私と美那。二人の家だった。

 あの子がいない。それは、自分の半分がなくなってしまったような気持ちだった。


 昨夜は一睡もできなかった。

 私はスマホを見つめて、我慢しきれずに、警察の担当者の電話番号を押した――


「もしもし! 娘の件でお世話になっております! 新庄です! 娘について、何か……!」


 担当者は「落ち着いてください」と声をかけてから、言葉を濁した。


「はっきりとは言えませんが……防犯カメラの確認で、電車で――県外に向かった可能性が出てきています」


「県外」


 私はその言葉を復唱した。

 それ以上の情報はなかった。

 私は通話を切ると、立ち上がった。


 薄手のコートを羽織り、傘を持ち、雨が打ち付ける外へと駆け出す。


 ――かつて、私が、美那と同じくらい、十七歳だった時――、私も、何もかもが嫌になり、雨の降る外に駆け出したことがあった。


 あの日、私は……一人、電車に乗って、ビルが立ち並ぶ繁華街に向かった。


「美那――」


 娘の名前をつぶやきながら、最寄り駅へと水たまりを踏みながら駆けていく。

 十七時の街は日が暮れかけていた。

 娘の向かったであろう場所が、直感的に私にはわかった。

 あの日の私のように、電車に揺られて、あのビルの並ぶ街へと向かう娘の姿が頭に浮かんだ。



『美那……』


 ママに呼ばれたような気がして、私ははっと顔を上げた。


「ミナちゃん、どうしたのー?」

 

 ローデスクを挟んで反対側に座った、金髪に近い明るい髪の女の人――ルナさんが、少し間延びした声で聞いた。


「何でも……ないです」


 私は部屋を見回した。六畳+キッチンのアパートの部屋には、私とルナさんしかいない。


 私は今、ルナさんの家にいる。


 部屋の隅に置かれた洗濯かごの中に、私の服が混じっているのが目に入った。

 学校のジャージと、家を出た日に着ていたTシャツ。

 どれも、もう一度は洗われている。


 ここに来てから、もう何日か経つんだな、と思った。


 ママと喧嘩をした日、ママが寝たのを確認して、私は終電に乗ってこの街に来た。

 机には「学校に行ってる」とメモを残して、友達に「明日休む」と連絡を入れて。


 どこか行く宛があったわけではなかった。

 ただ、どこか遠くへ、ママがいる家から離れたかった。


 ここ数年、私にとって、家は居心地が悪い場所だった。

 うちには私が生まれた時から父親がいない。ママは結婚しないで十七歳の時に私を生んだ。小さい頃から、私の家にはママと私二人だけしかいなかった。


 ――昔は、それでよかったけど。最近は家にいると息苦しくて呼吸ができないみたいな気分だった。ママは、私がママの想定しないルートに行くことを、極端に恐れている。


『変な友達と付き合うな』『バイトなんてする必要ない』『勉強と部活に励みなさい』


 ――どれも正論だとは思うけれど。

 ――けれど、高校生になっても友達と話して、夕食を過ぎそうな時間になると、最寄り駅の改札前まで迎えに来るママを見ると――監視カメラで見られているような気持ちで、最悪だった。

 改札を出たところで、ママはスマホを見ている。

 ……そのスマホには、私のGPSの位置が写っているのだと思う。


 ママの気持ちがわからないわけじゃない。

 ママは私が、自分のように“失敗”するのが怖いんだと思う。

 

 ――私は、ママの”失敗”の原因で、結果なのにね。


 ふらふらとこの街を数日さまよっていた夜、ルナさんが声をかけてくれた。

 雨に降られて、私の髪はずぶ濡れだった。


『――ねえ、あなた昨日も、このへんふらついてたよね』


 ルナさんはそう言って、私に傘を差しだしてくれた。

 キラキラした爪に、アイラインがくっきりしていて、煙草とお酒の匂いがかすかにする女の人。ママだったら、『付き合うな』と言いそうなお姉さん。目元の彫りが深くて、少し異国の感じがする人だった。


『名前なんていうの?』


 「ミナです」と答えると、ルナさんは「へえ」とつぶやいて、歯を見せて笑った。


『あたし、ルナ。微妙に名前似てるね』


 それから、私を手招きした。


『風邪引いちゃうよ。おいでよ』


 ――そして、私はふらふらとルナさんについていった。

 悪い人かもしれないという考えは頭をよぎったけれど、もうどうでもいいやと思って、私の頭は考えることをやめた。


「家出してきた」と伝えると、ルナさんはそれ以上のことは聞かなかった。

 ただ、『しばらく部屋にいていいよ』と言ってくれて、服を洗濯してくれた。

 

 ルナさんは夜に接客のお仕事をしているそうだ。夕方から仕事で、深夜過ぎに帰ってきて、お昼くらいまで寝ている。

 私は、スマホは持ってきたけれど、誰かからの着信を見たくなくて、電源を切ったまま。

 ルナさんが寝ている間は、部屋の隅で、漫画を読んでいた。

 ルナさんの部屋には、漫画がたくさんあったから。


「今日も一日雨だったね……」


 ルナさんがつぶやいて、窓の方を見た。

 カーテンの隙間から、窓をつたう雨が見えた。

 その向こうに、ビルの影がいくつも滲んでいて、ここは都会なんだな、と私は思った。

 

 ローテーブルの上のスナック菓子をつまんでから、ルナさんは立ち上がった。

 私は部屋の隅の棚に置かれた時計を見た。ウサギのキャラクターのかわいい時計。ニンジンの針が午後五時を指している。


「お仕事ですか?」


 そう聞くと、ルナさんは首を振った。


「今日は、休み」

 

 それから、私に手を伸ばした。


「ミナちゃん、お散歩いこーよ。ずっと部屋にいると、身体動かなくなっちゃうでしょ」


 私は押し黙った。ルナさんの家にお世話になってから、ずっと室内にいる。

 確かに、少し身体を動かした方がよさそうだった。

 けど、これは……。


 ルナさんは押し黙った私を見つめて、微笑んだ。


「……出てってとか、そういう意味じゃないから」


「――いえ、すみません」


 私はそう言って頭を下げると、パーカーを羽織り、ルナさんと一緒に部屋を出た。


「今日、夕食、何食べる? あたしの友達誘って、外で食べても、いーよ」


「それは、さすがに申し訳ないです……」


「いいよぉ。ミナちゃん、何が好きなの?」


「……回転寿司は、よく行きます」


「おいしいよねえ。回転寿司、あたしも好き」


 どんよりと曇った灰色のビル街をルナさんと並んで、少し錆びた傘をさして歩いて行く。ルナさんの家は駅から歩いて二十分くらいのところにある。


 周辺はマンションやオフィスが多く、日曜の夕方の今は人の気配は少ない。けれど、ちょっと歩くとすぐに賑やかな場所に出る。


  日曜日だからか、遊びに出てきた人たちでわいわいと賑わっていた。

 私はそんな人たちの中を黙々と歩くルナさんの後ろを、水たまりを踏みながらついていった。


「……日曜日ってお仕事、お休みなんですね」


「お店はやってるけどね。明日、月曜だし――あんまり、夜遅くまでいるお客さん少ないから……今日はシフトで休みだよ」


 ルナさんは話しながら、賑やかな場所を通り過ぎ、少し人通りの少ない道の方へ歩いて行った。――いつも決まっている道なのか、迷いのない歩き方だった。

 

 ふと古びたビルの前で、ルナさんは足を止めた。

 一階にコンビニが入っている。


「寒いからあったかい飲み物でも買う?」


 聞かれて、私はうなずいた。

 私たちは連れ立ってコンビニに入ると、温かいペットボトルのミルクティーを買った。

 お店の前でペットボトルの蓋を開けて、一口口をつけて、ルナさんはビルを見上げた。


「――このビルってね、飛び降りスポットなんだよ」


 冗談を言うような、軽い口調。


「え?」


 ルナさんの言葉にどきっとして、私も上を見上げた。

 空は家を出た時より少し暗くなっている。灰色の空に、『税理士事務』『まつげサロン』とビルに入っているテナントの看板が見えた。――普通の雑居ビルだ。

 なのに、私は目を離せなくて、何度かビルを見つめたまま瞬いた。


「今まで、五人くらい、飛び降りたんだって」


「……そうなんですか」


 何と返事してよいかわからずそう返すと、ルナさんはふっと笑った。


「――明日からまた仕事。行きたくないなあ」


 それから、また歩き出した。私はルナさんについていく。


 私たちはまた駅前の賑やかな方面へ戻った。

 駅近くの広場になっているところに、傘をさした女の子たちが輪になって立っていた。

 ピンクや水玉の傘。ひらひらしたワンピース。

 そこだけ花が咲いているようだった。


「あ、ルナ!」


 その中の一人の女の子がルナさんに手を振った。

 ルナさんは私の手を引いて、そっちに向かった。


「あ、その子? この前、家に連れて帰ったって子」


 珍しいものを見るように見られて、私はルナさんの陰に隠れた。


「――そう。ミナちゃん。家出中だって」


 ルナさんが微笑んで、私を彼女たちの前に出した。


「ミナ……」


 その中の一人が私の名前を反復する。

 それから、つぶやいた。


「――昨日、警察の人に、聞かれた……」


「――え?」


 私は目を見開いた。女の子たちがざわっとする。


「……捜索願い、出てるんじゃない?」

 

 そう言われて、私は頭が真っ白になった。

 ママが、私を捜してる。

 

 それは、わかっていたことだった。

 あんなふうに急にいなくなれば、ママは私を捜すのは、当たり前だ。

 ――けれど。

 小さい子供のように、見つけられて、連れ戻されるのは、嫌だった。


 私は真っ青になり、その場から走って逃げた。


「ミナちゃん!」


 後ろから、ルナさんの声が追いかけて来た。

 私はつまづいて、水たまりに膝をついた。手を離してしまったビニール傘がアスファルトに転がり、雨が顔に打ち付ける。そこにルナさんが追い付く。


「大丈夫?」


 ルナさんは私の手を引いて、近くの屋根があるところへ入った。

 そこは、さっき温かい飲み物を買ったコンビニの店先だった。

 

「――ごめんなさい。取り乱しちゃって……」


 私は額に垂れる水滴を拭いながら、つぶやいた。


「当然、なんですけど……ママが捜索願い、出してるの……、急に出てきたから……」


 私は言いながら、その場にうずくまった。

 何も連絡せず、家を飛び出したのだから、ママが警察に連絡するのは、当然考えられることだった。――けれど、まさか、駅前にたまっている女の子たちのところまで、警察の人が聞きに来るなんて。そんな大事になるなんて、思っていなかった。


「お母さん、心配してるんだね……」


 私の前に座り込んだルナさんが、私と目線を合わせて、つぶやいた。


「――帰ったら?」


 その言い方が、どこか、突き放すような言い方に感じて、私ははっとして、彼女の顔を見つめ返した。私の視線に気づいたのか、ルナさんは、はっとした表情になって、それから少し視線を落として微笑んだ。


「――心配してくれる人がいるなら、帰った方がいいよ」


 それから、付け加えた。


「あたしのこと、お母さんとかに言わないでね。……面倒なの……嫌だから」


「……嫌」


 私は思わず、つぶやいた。


「ママのとこに戻るの、嫌だ」


 またあのアパートに戻って、ママにずっと見られているような生活に戻るのは嫌だった。

 こんなことをしたのだ。今度はスマホも取り上げられるかもしれない。

 ママは私のことをいつまでも小さな子どもだと思っている。

 自分がいないと何もできないと思っている。


「――そう……嫌なんだ」


 ルナさんは、視線を上げて、私と目を合わせると、にこっと笑った。

 とても、かわいい笑顔だった。年上の人だと思えないくらい。クラスの同級生の友達に笑うみたいな笑顔だった。


「ねえ、ミナちゃん。ちょっと、ついてきて」


 ルナさんは、私を手招きした。

 ――コンビニの横の、ビルの上につながる階段へ。


「――どこに行くんですか?」


「ちょっと上に、行ってみない? ――ここのビルの上からね、下を見ると落ち着くんだよ」


 ルナさんは、私の手を引いて、ビルの上へと続く階段を上って行った。

 私は手を引かれるまま、彼女について行く。

 ――他に、行く場所もなかったから。


 内階段を昇って、二階へ上がる。そこには『税理士事務所』と書かれた扉があった。

 ルナさんはその奥、緑のピクトマークが光る非常階段の方へと、軽い足取りで歩いて行った。


 非常扉のドアは鍵もかかっておらず、ルナさんがドアノブを回すと、キィィィィ音を立てて開いた。屋外の湿った風が顔に吹きつけた。


 ルナさんは、私の手を引いて階段を上がっていく。


「……私の叔母さんね、ここから飛んだんだ」


 カンカンっと階段を昇る音を響かせながら、ルナさんはつぶやいた。


「叔母さんが飛んだのって、私と同じくらいの年だったみたい。私が四歳のとき――だから十六年前? ここから飛び降りて、死んじゃったんだって」


 非常階段の手すりは低く、地上が良く見えた。

 いつの間にか日が落ちて、すっかり真っ暗になっていた。


「――近くに住むようになってから、ときどき、ここに来るの。……どういう気持ちだったのかなって思って」


「……どんな人だったんですか?」


「そんなに会ったことないから、あんまり覚えてないけど。優しい人だった気がする。にこにこ笑ってたのにね……」


 ルナさんは足を止めた。

 ここは、何階だろう。外には向かいのビルの看板のネオンが見えた。


「……いざとなったらね、叔母さんみたいに、飛んじゃえばいいんだって思ったら、気持ちが落ち着くんだよね」


 ルナさんは階段から下を覗き込んだ。


「わぁ!」


 歓声のような小さな声。

 ルナさんは真っすぐ、下の地面を見つめていた。


 そして、私を振り返ると、にっこりと、家の中でカーテンの後ろにかくれて、ママに見つけてもらった小さな女の子のような笑顔で、笑った。


 階段の下から、車の走る音も、人の声も聞こえなくなっていた。


「ねえ、ミナちゃん! 見て、“みんな”が呼んでるよ!」


 小さな子が友達の袖を「遊ぼう」と引っ張るように、ルナさんは私の手を引っ張った。

 

 雨で濡れたアスファルトに、女の子の姿が映っていた。

 画面に映っているように、水で濡れた黒いアスファルトに、女の子の影が揺れている。

 白いワンピースを着ている……?

 それとも、ピンク? 青?

 いろいろな姿の女の子が、微笑みながら、私たちを手招きしていた。


「ねえ、ミナちゃん。――いっしょに、行こ!」


 ルナさんが、柵に左手をかけて身を乗り出し私の手を引っ張った。

 ぐいっと引っ張られて、身体が傾き、足が浮く。

 そのとき、誰かが私の名前を呼んだ気がした。


 ――いっしょに、行こ!


「――行けない!」


 私は自分の叫び声にはっとして、周囲を見回した。

 電車の乗客が、不審者を見るような目で私を見つめた。

 

 自分の手のひらを見つめる。肌寒いはずなのに、じっとりと汗をかいていた。

 ――私は今、電車に乗っている。

 電車に揺られている間に、ほんの一瞬、意識が飛んでしまったようだ。

 美那がいなくなってから、ほとんど眠れていなかったから。


 車窓の景色を眺める。電車に乗っている間に、日が暮れたようで、外は真っ暗になっていて、窓に自分の顔が映った。

 

 ――三十三歳の女の顔。年齢より上に見られることが多い、疲れた顔。この世の終わりみたいな表情をしている。


 私はそこに、かつての十七歳だった私の姿を重ねる。

 十七歳だった私も、こんなふうに、世界が終わるみたいな表情で、暗闇を見つめて、この電車に乗ったことがあった。


 ――美那を生んだのは私が高校三年生のときだった。

 父親は塾帰りに友人と立ち寄ったゲームセンターで声をかけてきた、少し年上の男の子。

 付き合ってはいたけれど、私は彼の本名も本当の年齢も知らなかった。

 美那がお腹にいると気づいたときには、彼は姿を消していて、もう生むしかなくなっていた。


 両親は激怒し、私は一人ぼっちだった。

 自分のお腹から出てきた、子猿みたいに泣きわめく美那をどうしていいかわからなくて、私はあの子を置いて、産院を飛び出し、電車に乗った。


 窓に手を置き、外を見つめていると、プシューと音がして扉が開いた。

 私は立ち上がり、たくさんの人に押されるように駅で降りた。

 ホームの外には黒いビルが立ち並んでいる。

 あの日私が降りたこの街に、あの子もいると――そう直感が告げていた。

 

 足早に改札を出た私は、駅から少し歩いたところにある公園の広場に向かった。

 ――十六年前、私が向かった場所。


 しとしとと雨が降る公園に、ほっそりとした女の子たちが、いろいろな色の傘をさして立っている。そこだけ薄暗い街に、花が咲いているような雰囲気だった。


 私はその花畑に分け入るように、彼女たちの中に入って行った。


「何、この人」と刺すような視線を向ける彼女たちに、スマートフォンの画面を見せる。

 ――美那の写真。


「すみません、この子を知りませんか」


 そう言い終わる前に、一人の女の子が「あ」と声を上げた。


「ルナの連れてた子――」


 そのつぶやきに、私は硬直した。

 『ルナ』

 彼女の言ったその名前が、信じられなかった。


 どうして、『瑠奈』ちゃんの名前を――?


 記憶が蘇る。

 美那を置いて、産院を抜け出して、行く先がなくてこの公園で佇んでいた私に、声をかけてくれた女の子。

 あの日も雨が降っていた。


『どうしたの』と、瑠奈ちゃんは私に、ビニール傘を差しだしてくれた。


「ルナって――誰?」


 私の剣幕に、女の子たちが困惑したように後ずさりした。


「誰って――、ルナは、ルナだよ」


「おばさんこそ、誰?」


「――私は、この子の母親です」


 私はもう一度、美那の写真を彼女たちに見せた。

 少女たちは顔を見合わせ、表情を強張らせた。

 

「ルナは、面倒見がいいから――、あの子のこと、気にしただけだよ」


 一人が、懇願するような口調で私に言った。

 

「別に、何か、悪いことしようとしたとか、そんなんじゃないよ、おばさん」


 もう一人の少女も、私に訴える。


「――わかったわ。わかったから――、“ルナ”はどこに、いるの?」


 私の問いに、少女たちは一斉に、同じ方向を見た。

 道路の先、ビルが並ぶ道の先。

 記憶が蘇る。あの、ビルは――


「あっちに、その子、走って行って」

「ルナも追いかけた」


 彼女たちの返事を待たず、私は駆け出した。


 十六年前。

 この広場で、私は『瑠奈』ちゃんに声をかけられた。

 近くで一人暮らしをしているという、瑠奈ちゃんの家に、連れて行ってもらった。

 それからしばらくの間、私は瑠奈ちゃんと一緒に過ごした。


『子どもを、置いてきてしまったの』


 そう言うと、瑠奈ちゃんは、煙草を吸いながら笑った。


『最悪じゃん。――あたしもね、置いてきちゃったんだ。――女の子だったよ』


 煙を吐き出した瑠奈ちゃんは、乾いた声で笑った。


『あたしなんかじゃ、育てられないからって、お兄ちゃんと奥さんが、ちょうだいって。あたしはいーよって言っちゃった』


 それから、私の口元に、自分のくわえた煙草を添えた。


『――最悪だね、あたしたち』


 瑠奈ちゃんと私は、夕暮れの街を一緒に歩き回った。

 途中から雨が降ってきて、私たちは近くのビルに駆け込んだ。


 瑠奈ちゃんは非常階段の方へ歩いて行った。


『ここって、前に、飛び降りた子がいるんだって』

 冗談を言うみたいな口調で、そんなことを言いながら、瑠奈ちゃんは階段を上って行った。

 私は後を追っていった。


『――飛びやすいところを、あたし、見て回ってたんだけど』


 そう言って、階段の途中で足を止めた瑠奈ちゃんは、私を見つめて、微笑んだ。


『ねえ、マユちゃん。ここ、見てみて? 不思議なんだよ』


 瑠奈ちゃんは、階段の手すりから身を乗り出すように下を見つめた。


『女の子がね、こっちにおいで、おいでってしてるの』


 私もつられて、身を乗り出した。

 雨で濡れた黒いアスファルトに、女の子の姿が見えた。

 赤い服、青い服、白い服――いろいろな姿の女の子が、私たちを手招きしている。


『――呼んでるよ! 一人じゃないよ!』


 ――瑠奈ちゃんが、私の手を掴んで微笑んだ。

 私の身体が引っ張られる。


 ――そのとき、耳元で、赤ちゃんの泣き声が聞こえた――


『行けない!』


 私は叫ぶと、瑠奈ちゃんの手を突き放した。

 瑠奈ちゃんの身体が、宙に投げ出されて、そして、消えた。


 何かが潰れる音。悲鳴。

 

 下をのぞくと、そこには、濡れたアスファルトに横たわる瑠奈ちゃんがいた。

 きらきらとアスファルトに反射する看板のネオンに包まれるように、上に手を伸ばして、横たわっていた。


 ――どこにも、手招きをする女の子たちの姿はなかった。

 ただ、周囲の看板の広告の女の子が、アスファルトの水たまりに反射していた――


「このビル――」


 私は記憶と同じビルで足を止めた。

 一階は新しいコンビニだった。けれど、あの時と同じビルだった。


 私はコンビニ横の階段を上り、二階から非常階段に駆け込んだ。

 階段を駆け上がる。


 どうして、あの瑠奈ちゃんと同じ名前の女の子が美那と一緒にいるのか、全く見当がつかなかった。――けれど、美那はここにいる気がした。


 予感は当たった。

 階段を駆け上がったその先に――美那はいた。


 茶色い長い髪の、ぱっちりとした目元の女の子が美那の手を引くように手すりの下を覗き込んでいる。――一瞬でわかった。その子は、瑠奈ちゃんと、よく似ていた。


「美那あああ」


 私は娘の名前を叫んで、手を伸ばした。

 瑠奈ちゃんと似た女の子の身体が、手すりの下に落ちる。

 美那の身体が宙に浮く。

 

 私は美那の腕をつかむと、横に引っ張った。

 美那は階段に尻もちをつく。

 ルナ――瑠奈ちゃんとよく似た女の子が、代わりに、私の手を掴んだ。


 私の身体は”ルナ”に引っ張られて、宙に浮いた。

 

 ――どうして、今まで、瑠奈ちゃんのことを、忘れていたんだろう。

 あのあと、アスファルトに横たわる瑠奈ちゃんを残して、逃げるようにその場を去って、実家に戻った。役所に保護された美那を引き取るために、必死で生活を立て直すのに、忙しくて、思い出す暇もなかったから――?


 私は私の手を引く、”ルナ”を抱きしめると、自分の上になるように身体をひねった。


「ごめんね、一人にして」


 そうつぶやいたとたん、ゴンっと何かに身体がぶつかり、骨が砕けたのがわかった。

 ――そして、衝撃。

何か湿った白い塊に身体が突っ込んだ。

 それは、ビニール袋だった。袋が破け、中身が飛び散る。

 ゴミの臭いがあたり一面に立ち込める。

 口の中に錆を飲んでいるような、血の味が満ち満ちた。


「あああああぁぁぁぁ」


 泣き声がした。

 見ると私の隣で、”ルナ”が泣きながら、私を見ていた。


 ――彼女は生きている。


 と同時に、声がした。


「ママっ!」


 上を見ると、美那が私を見下ろしていた。

 私はそちらへ手を伸ばして、微笑んだ。


 通行人の悲鳴。救急車の音。血の味。痛み。


 ――雨音の中、私の視界は真っ黒になった。


「美那、そこ右折ね」


「了解」


 助手席のママに言われて、私はウィンカーを点滅させた。

 ――あれから二年。

 私は大学生になり、車の免許をとった。


 ビルの七階から転落したママは、途中で非常階段の柵にぶつかって、ごみ捨て場のごみの上に落ちた。半年くらい入院して、家に戻って来た。


 私は初夏の緑が生い茂る霊園の前で車を止めた。


「ママ、着いたよ」


 扉を開け、車から降りるママの手を引き、杖を渡す。

 ――ママはまだ、リハビリに通っている。


「真由子さん、美那ちゃん。お久しぶりです」


 霊園の駐車場の出口で、茶色い髪の女の人が私たちに頭を下げた。


那瑠(なる)ちゃん。元気そうでよかったわ」


 彼女はルナさん――、「ルナ」はお店で使っていた名前で、本名は那瑠さんと言うそうだ。

 那瑠さんは、ママの上に落ちたからか、足の骨折だけで済んだ。

 ママより先に退院したけれど、しばらく、心を休めるため入院していたそうだ。

 

 私はあれから那瑠さんとは連絡をとっていなかったけれど、ママは、どこかでつながって、ずっとやりとりをしていたそうだ。


「ショート、似合っているわね」


 ママが那瑠さんに笑いかけた。

 那瑠さんは長かった髪を切って、今はすっきりとしたショートカットだ。


「ショートは美人さんじゃないと、似合わないのよね」


 ママに言われて、那瑠さんは照れたように視線を落とした。


「こっちです。――叔母さんのお墓」


 私たちは今日、那瑠さんのお父さんの妹さん――”瑠奈”さんのお墓参りに来たのだ


 あのビルから、私が生まれた頃飛び降りて亡くなった那瑠さんの叔母さん――瑠奈さんは、お母さんの知り合いだった。


 入院中に、お母さんからいろいろな話を聞いた。


 私の父親とどうやって知り合ったのか。

 私を置いて、病院を飛び出したこと。

 そこで瑠奈さんに会ったこと。

 ――あのビルであったこと。

 そのあと、実家に帰ったこと。

 私を引き取るまでのこと。


 私には本当に小さい頃の記憶が抜けていた。2歳くらいまでの写真も、家にはほとんどなかった。――私はその期間、施設に預けられていたことを初めて知った。


 ……私はママのことを何も知らなかった。


 私たちは、瑠奈さんのお墓に手を合わせた。


 ――あのビルで、ママと那瑠さんが落ちた先のアスファルトに映っていたのは、向かいのビルの看板の女の子と色とりどりのネオンだけだった。そのネオンが、水たまりに反射して、行き来する車のエンジン音と一緒に揺れていた。


 手招きする女の子たちは、どこにもいなかった。


 ママが何度も市役所やビルの管理会社に連絡をして、非常階段の柵が高くなったと聞いた。――あれ以来、あのビルには行っていないから、わからないけれど。


 築三十年のあのビルでは、私たちの前に、瑠奈さんを含め五人の女の子が飛び降りて、亡くなっていたそうだ。


 ――彼女たちの目にも……アスファルトの水たまりの向こうで、

 「こっちへおいで」と手招きをする女の子たちが映っていたのだろうか。


 ……それを確かめる術はない。


 よく晴れた初夏の霊園で、私たちは静かに手を合わせていた。


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