第二話 表 異界との遭遇 前
一ノ瀬遼には母親の記憶がない。
遼を産んだ直後に亡くなったため二つ上の姉春華もまた、母との思い出を持たない。
寂しかったかと問われれば、そもそも遼にとっては”初めからいなかった”のだから寂しくはなかった、と即答できる。
勿論、母という存在に思いを馳せることはあった。
どこへ行っても「母を亡くした子供」というものは同情の目を向けられるし、それだけでどこか腫れ物のように扱われてきた。
『母がいる』という状況を想像するのはそのまま他の子供達と自身の境遇を比較する事に他ならなかった。
そこに何か、父に対する後ろめたさのようなものを感じるのだ。
母の事を殆ど語ろうとしない父。
医者として務める傍ら、男手一つで二人の姉弟を育て大学まで行かせてくれた。
時折、これで精神科医が務まるのかと不思議に思うほど家での父は寡黙だった。
姉弟の話は真摯に聞いてくれるし、子供の頃は定期的に遊園地などに連れて行ってもくれた。
だが、どんな時もその口からは「必要な言葉」しか紡がれる事はなかった。
父が昔からそうだったとは思っていない。
きっと、母の死が彼を変えてしまったのだろう。
だから、そんな父に思いを馳せる時はどうしても「母が生きていれば」と考えてしまうのだ。
癒えぬ傷を抱えたまま他人の傷を癒やし、家族を守り、育む。
その父の背中を、在りようを遼は心から尊敬していた。
農作業帰りの男性に教わった広場に車を停める。
ここは祭りなどの催しの際に使われる広場で、普段は資材置き場兼駐車場として使われているらしい。
――苔守村。
人口二百人ほどの限界集落――小さな村だ。
山間部に隠れるように存在する集落は、東京都内にありながら別世界のような長閑さだった。
姉、春華が消息を絶った教団施設。
そこを去った二台の車の行き先。その一つがこの村だった。
この村に星雲救世会が初めて現れたのは25年も前の事だ。
持ち主が亡くなって遊休農地となっていた土地を買い取りそこに施設を建てた。
村民に対して勧誘活動をしてはいたがさほど熱心でもなく、何か他に目的があるように見えた、と公安の資料にあった。
エンジンを止め車を降りると太陽と蝉時雨の洗礼を受ける。それでも暑さは都心部より幾分大人しく感じられた。
まずは教団施設を当たる予定だ。
恐らく中に入れてはくれないだろうが、揺さぶりをかけて不自然な対応であればそれそのものが一つの根拠足り得る。
左手に田畑、右手に林を見つつ歩いていると、ちらほらと狐の石像を祀った小さな祠が目に付く。
ここに来た目的とは何も関係ないはずなのに妙に引っかかるものがある。
ちょうど、道路脇の祠に手を合わせる老人を見つけ声をかけた。
「こんにちは、暑いですね。これは……この村の神様ですか?」
突然の声かけに一瞬驚いた老人は、すぐに日焼けした顔に人懐こい笑顔を浮かべた。
「おやまあ、あんた外の人だね? こんななぁんもない所に珍しい」
「ええ、郷土史や風俗に興味がありまして」
軽く会釈してそう返す。
「そうか、たまに郷土史の先生なんかがおいでになるが。まあそんな珍しいもんでもないさ」
一息ついて、少し何かを思案しているように見えた。
「――これはウカさまの祠だ。わしらは『お稲荷さま』と呼んどるがね」
――ウカさま。宇迦之御魂神のことだろうか。
ウカノミタマは稲荷神と同一視される事で知られる農耕を司る神だ。その御使いとされる狐の姿で祀られていてもさほど違和感はないように思える。
「なるほど、ウカさまが苔守村における祭神なのですね」
老人が頷く。
「何百年も前からこの村を守って下さっとる。……ありがたい神様よ」
その言葉は、ただの偶像に向けられたものにしてはどこか妙に実感を伴ったものに聞こえた。
「――そうだお兄さん、これ今朝採れたトマト持っていきな。うめぇから」
別れ際に半ば強引に手渡された、大きなトマトが五つ入ったビニール袋をぶら下げて教団施設を目指す。
夕陽に照らされ橙色に染まったそれは、想像以上に質素な建物だった。
遠目には地方の公民館にしか見えず、外観には宗教的なモチーフもほとんど見られない。
唯一、純白の正面玄関に五枚の翼のシンボルが控えめにあしらってあるだけだった。
扉を開くと外観同様内装も質素で、白を基調に執拗なまでに整えられた館内は病院を思わせる。
目の前に受け付けがあり、そこにはスーツ姿の女性が座っていた。
歳は三十前後だろうか。
顔色、髪の質感、手首の細さなどから全体像として不健康な印象を受ける。
女性は遼の顔と、右手にぶら下げたトマトの袋を一瞥する。
「アポイントメントはございますか?」
その口調に「あるはずがない」という感情が滲む。
「いえ、人探しをしているのですが星雲救世会の方が何かご存知ないかと思いまして」
細い眉が、ピクリと動く。
遼はそれを見逃さず二の句を告げる。
「こちらの施設の代表に会わせていただけないでしょうか」
「アポイントメントがないならお引き取りください」
明確な拒絶。
こんな時に刑事の肩書きが使えたら多少はやり易いのだが、流石にここで出したら始末書では済まない。
眼鏡のブリッジを押さえてから、もう一つ揺さぶりをかける。
「……一ノ瀬春華という名に覚えはありませんか?」
「お引き取りください」
姉の名前には動揺は見られない。
恐らく、行方不明者に関する問い合わせはしばしばあるのだろう。対応に慣れを感じる。
その一方で、当然だが末端の信者に拉致に関わるような情報は共有されてはいないようだ。
これ以上粘って警察を呼ばれたりすると面倒な事になるだろう。
「分かりました。お騒がせして申し訳ありません」
女性に会釈し、扉を押し開いて外に出る。
敷地を出ると、まだ予熱を帯びるアスファルトから立ち昇る陽炎の中、遼を待ち構えるように人影があった。
暑苦しいアブラゼミの声はいつの間にか涼しげに鳴くひぐらしと入れ替わっていた。
足を止めて人影を見定める。
それは白い小袖に緋袴、千早を羽織った……つまり巫女装束に身を包み黒髪を高い位置で結った、スラリとした長身の少女だった。
白と赤の衣装が夕陽に赤く燃え、現実と幻想の狭間に揺れる。
少女は遼の姿を認めると、洗練された所作で頭を下げた。
「ウカ様の名代でお迎えに上がりました」
少しだけ顔を上げ、こちらを見る。
「――一ノ瀬遼様」
ひぐらしが、鳴いている。




