第十六話 表 呼び声 前
あり得べからざる光景が目に入った次の瞬間、燈が石段を駆け降りた。
位置エネルギーを速度に変えてどんどん加速し、つんのめりそうになりながら、それでも止まらない。
目に見えたものを脳が処理しきれていなかった遼は数秒、その揺れるポニーテールを呆けたまま見送った。
「――燈さん!!」
ヒスイと目配せをしてその背を追う。
迂闊だった。
この景色を燈が真っ先に見てしまうことを恐れて自ら先行することを申し出たのに、結局それを防ぐことができなかった。
しかし、仮にそれが上手くいっていたとして何の意味があろう。
それを僅かに先送りしたとて、彼女にとっての救いになどなり得ない。
すでに起こってしまったことに対して、遼は余りにも無力だった。
石段を降り切り、そこに呆然と立ち尽くす燈に追いつく。
そこに広がるはずの田畑も、その間に点在する民家も――人の営みそのものが巨大な山に覆い潰されていた。
燈が膝から崩れ落ちる。
かつて苔守村だったその場所に、少女の慟哭が響く。
燈の背を見つめる自分の姿すらも俯瞰するように、思考が情報の整理を始める。
昨日かかってきた明石景真からの電話。
その中で彼は目の前に「巨大な空穴が現れた」と言っていた。
そして、その通話の発信源はこの苔守村だった。
つまり、ネビュラで空穴に飲まれた山がそのままこの村の上に飛ばされてきた、ということだろう。
これは空穴についてヒスイから聞いていた情報や、基地局で見たその痕跡からすると明らかに異常な規模と言える。
事態が一つ、次の段階へと進んだ。
そんな感触が確かにあった。
ヒスイがそっと、燈の隣に座りその肩を抱く。
その手もまた、守るべき場所を失った痛みに震えていた。
掛ける言葉も無くその姿をただ後ろから眺めていると、燈がふらりと立ち上がり覚束ない足取りで歩き始める。
村を押し潰した山の外縁をぐるりと進み、ある点で立ち止まった。
「……遼、この山からは濃いアニマを感じます。やはり、これは……」
ヒスイの声が揺れる。
遼もまた、自身の身体の中にある何かがその場の空気と共鳴するように震えているのを感じていた。
遼はヒスイに首肯で応えると、山に踏み込もうとしている燈を止めに入る。
「燈さん、危険です!」
「……家に帰らないと」
そう呟き、遼の方を振り返ることもなく登っていく。
その後を追い、岩が突き出た山肌を登っていく。
最初はただの岩山だったが途中から崩れた石段が現れ、その先には石造り、あるいは木造の建造物がいずれも崩れた状態で立ち並んでいる。
なんらかの商店らしき建物から落ちて割れた看板には、見たこともない文字が刻まれていた。
異世界は実在した。
そして、その一端がこうして顕現し牙を剥いたのだ。
ふと、燈の足が止まる。
一点を見つめて立ち竦んでいる。
その目線の先に人影があった。
「おじいちゃん!!」
燈が駆け出した先に立っていたのは袴姿に白衣をはだけ、大きなスコップを足元に突き立てた清光だった。
「燈!? どうしてここに!」
清光はスコップから手を離し、胸に飛び込んできた燈を抱き止める。
「ニュースを見たんです。……こんなことになっているとは」
「一ノ瀬さん……」
燈の後ろから現れた遼に会釈する。
「ニュースではなんと?」
「土砂崩れ、と報道されてました」
「――これが土砂崩れなんぞであるものか」
清光はそう言ってぐるりと辺りを見渡す。
「山が……町が降ってきたんだ。私はその時たまたまお社を清めていたから、こうして生きているが」
「……お父さんと、お母さんは?」
清光の胸に顔を埋めたまま燈が問う。
「……分からん。家は、この下だ」
そう言って足元を見る。
そこにはすでに大きな穴が掘られていた。
よく見ると装束は土に塗れており、手のひらには血が滲んでいる。
燈は清光の答えに対して何も言わなかった。
その返答を覚悟していたかのように。
「はぁ……はぁ……清光……? 無事だったのですね!」
ヒスイが息を切らして追いついて来る。
「ウカ様! もう二度とお目にかかれぬものと存じておりましたが……」
「言ったでしょう。ここはわたしの……二つ目の故郷だと」
「……感謝申し上げます」
清光が深く頭を下げる。
「頭を上げてください。……わたしは、この未来を視ることができませんでした。村を……守れなかったのです」
糸の切れた人形のようにその場に崩れ、ヒスイは泣いた。
その涙は村の守り神としてのものか、村を想う一人の人間としてのものか。
清光は一言だけをヒスイに返した。
「――そのようにこの村を想って下さり、ありがとうございます」
それは叱責でも慰めでもなく、ましてや怒りなどではあり得ない。
ただ静かな、感謝の言葉だった。




