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第十三話 表 赫い豪雨


 車内は沈黙で満たされていた。


 結局、父にヒスイの正体を告げることはできなかった。

 

 だが父はヒスイも、そして母もまた、この世界の人間ではないと悟っていたようだった。

 

 全てを飲み込み、その上で沈黙を選ぶ。

 それが、あの人の選んだ生き方なのだ。


 そして、そうさせたのは自分たち姉弟なのだから、それを責めることなど遼にできようはずもない。


 だからどうか、待っていてほしい。

 その不器用な生き方が報われる時を。


 どうか、その時まで壊れることなく。


「――なにか、食べたいものはありますか?」

 ちらりとルームミラーを見て声をかける。

 二人とも眠ってはいないようで、考え事をするように窓の外をぼんやりと眺めていた。

「あ、私ラーメンが食べたいです!」

 燈がバッと手を上げて答えた。

「ラーメンですか?」

「はい。村にはラーメン屋さんがないので……学校のある麓の町にはあるんですけど、子供の頃からラーメンって言ったらインスタントかそのお店ばかりで」

「うちの近くにとっておきの店があります。一旦帰ってから歩いて行きましょう」

「やったー!」

 天井に当たらないよう控えめに万歳する燈をヒスイがにこにこと見ている。

「ラーメン、楽しみですね」

「はい!」

 

 時刻はちょうど正午。

 一度家に帰ってから向かえばランチタイムを過ぎたくらいになるだろう。


 空を見ると、真っ黒な雲に覆われている。

 まだ持ち堪えているものの、いつ降り出してもおかしくないだろう。


 マンションの駐車場に車を停め、二人をエントランスに残して一度自室に戻る。

 

 玄関に立てかけられた真っ黒な雨傘を見る。

 大きくて、飾り気のない雨傘だ。

 

 それは手に取らず、ビニール傘を二本取って部屋を出た。

 ヒスイたちを二人だけにしたことを一瞬後悔したが、二人は変わらずエントランスにいて、エレベーターの扉が開くと燈が元気よく遼に向けて手を振った。

 

 三人でエントランスを出ると、遠く雷が響く。


 12時台にはサラリーマンたちが行列を成しているラーメン屋も、この時間になると落ち着きを取り戻していた。

 

 テーブル席に座ると、燈はさっそくメニューを開いて隣のヒスイと一緒に目を輝かせてページを手繰っている。


「うわー美味しそう! ね、ヒスイさ……お姉ちゃん!」

「ふふ、そうですね。遼、おすすめはありますか?」

 この店で頼むものはいつも決まっている遼は、メニューを見ることもなくよく冷えた水に口をつけていた。

「この店はチャーシューが美味しいので、チャーシュー麺ですね。そのチャーシューを使ったチャーハンも絶品です」

「じゃあこれですね。チャーシュー麺の半チャーハンセット!」

 燈がランチセットのページを指差す。

「さすが燈さん。御名答です」

 遼は燈に我が意を得たりとばかりに頷くと、燈は嬉しそうに指でVサインを作った。


 三人で同じセットを注文し、料理を待つ。

 注文を取った店員がテーブルを離れると、先ほどまでの空気と入れ替わるように静寂が滑り込む。


「……遼のお母さんは、ネビュラから来たのですね」

 空白のような沈黙をヒスイが静かに破る。

「……そのようです。まだ実感が湧きませんが」

「あなたの中にアニマを感じたのは、お母さんから受け継いだものだったのですね」

 

 以前、ヒスイの手に触れた時に感じた何かが()()()()ような感覚。

 あれがアニマだったのだろうか。

 

 遼は返す言葉が見つからず、ヒスイもまた、それきり何も言わなかった。

 

 燈も空気を読むように押し黙っていたが運ばれてきたラーメンとチャーハンを平らげる間、ずっと言葉にならない声を上げていた。


 会計を終え店を出ると、パラパラと雨が降り始めていた。

「激しくならないうちに帰りましょう」

 傘を差し出すと燈がそれを受け取り、ヒスイを入れるように差す。

「ふふん、相合傘ですね」

 燈は楽しそうに、ヒスイにくっついて歩き出した。ヒスイはくすぐったそうに燈と肩を並べている。

「……私が小さい頃は、こうしてヒスイ様に傘を差してもらってましたね。今は私の方が大きいので私が入れて差し上げます」

「むっ。なんでしょうか、この敗北感は……」

 冗談めかして言うヒスイの言葉には、少しだけ寂しさが滲んでいた。

 

 マンションが近づいたその時、前を行く二人の足がぴたりと止まった。


 その視線の先を見る。


 一人の男が立っていた。

 

 傘も差さず、夏場には到底相応しくない黒衣に身を包み、フードを目深に被っている。


 雨足が強まり、稲光が辺りを包む。

 雷光に照らし出された顔には深い皺が刻まれていた。

 その顔には見覚えがある。

 喫茶店から見た教団施設の前で、御堂コトネの隣にいた男だ。


「一ノ瀬遼」

 低い声が響く。

 名前を把握されている。

 しかし、その事実に遼は全く驚いてはいなかった。

 

「そのネビュラ人をこちらに引き渡し、この件から手を引け」

 遼は傘を畳み、それをヒスイに手渡して二人の前に立つ。

「……それはできかねます」

「後悔するぞ」

 男は言いながら一歩、前へ出る。

 見えない圧力に思わず腰が引ける。

 森の基地局で襲ってきた男とは明らかに質が違う。

 この相手に、警察仕込みの体術が通用するだろうか。


 男が拳を構えた。そう知覚した瞬間、砲弾のような拳が降りしきる雨を切り裂きながら頬を掠めた。

 頬が切れ、雨に濡れた顔を生温かいものが伝う。

 

 反射的に首を捻ってはいたが、男がわざと外したのだとはっきりわかる。

 

 勝ち目はない。


 それでも、もう逃げられない。

 

 ヒスイを差し出す?

 ありえない。


 覚悟はあった。

 いつかはこうやって、抗いがたい暴力と対峙する時が来ると。


 右の拳を握り、男の顎を目掛けて打ち込む。

 何度も何度も練習し、身体に染み込ませた型で。

 最短距離を、予備動作なく突き出す。


 目の前で白い光が弾け、意識が飛んだ。


 ヒスイが遼の名を呼んでいる。

 その音はくぐもって、まるで海底(うなぞこ)に沈んだようだ。

 雨が顔を叩いている。

 

 目は開いているのに視界がはっきりしない。


 意識が浮上するのにつれて、徐々に視界が定まる。


 フードの脱げた男が、遼を見下ろしている。

「……赤髪の……男……」

 年は50前後。

 燃え立つような赤い髪をした長身の男だ。


「一ノ瀬湊は、お前にその話をしたのか」

 遼は焦点の合わない目でぼんやりと、男を見ている。

 揺るぎないものに映っていた男が、ほんの微かに揺らいで見えた。

「……愚かな男だ」

 

 男は吐き捨てるようにそう言うと、雷鳴だけを残して去って行く。

 その強烈な気配も、雨に溶けて消え去った。


「……遼!」

 男が去ったのを確認し、ヒスイと燈が仰向けに倒れたままの遼に駆け寄る。

「とにかく屋内に!」

 燈がそう言い、二人で遼を引きずるようにしてエントランスに運ぶ。


「大丈夫ですか!?」

「……はい。まだクラクラしてますが、痛みは大したことありません」

 切れた頬だけが灼けるように痛んだ。

 遼が拳を繰り出したその刹那、男はカウンターを遼の顎に叩き込んでいた。

 いや、その拳は顎を捉えきらず、あえて掠めていった。

 手加減をされた。

 そもそも、本気で殺すつもりやヒスイを(さら)うつもりがあれば武器を使ったはずだ。

 だが、男がそうした理由が分からない。


 足に力が戻ったことを確認して立ちあがろうとしたその時、ポケットの中のスマートフォンが鳴り、滝のような雨の音が遠くなる。


 ポケットの中にあってなお、じっとりと雨に濡れたそれを取り出す。

 眼鏡の水滴を指で拭い、ディスプレイを確認する。


「明石……景真……」


 それは二度目の、異世界からの着信だった。




 

 

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