第十二話 表 家族の肖像 後
つ――、とグラスの外側にできた水滴が滑り落ちる。
湊の語った27年前の出来事に、遼たち三人は皆一様に言葉を失っていた。
「その後、我に帰った私はすぐに警察に駆け込んだ。被害届はすぐに受理された。だが、それから数日待っても梨の礫だった」
湊が大きく息を吐く。
「……それからしばらくしてだった。かなたの死亡届が受理されていたことを知ったのは」
人を一人白昼堂々誘拐し、警察を黙らせ、死んだことにする。
母、一ノ瀬かなたを拉致した”何者か”に遼は心当たりがあった。
「私は手を尽くしてその痕跡を追った。そして辿り着いたのが――」
「星雲……救世会」
遼の口から出たその名に湊が目を見開く。
「……そうだ。そして私は沈黙することを選んだ。こんなことが可能な組織と戦えるはずがない」
ここまでずっと、静かな語り口を崩さなかった湊の声が上ずる。
「お前たち二人を守るため……そう自分に言い聞かせた。本当は怖かったんだ。それすらも、失うことが」
それは紛れもなく、初めて見る父の剥き出しの心だった。
「……だから私は、かなたを見捨てた」
遼は目を閉じる。
ずっと寡黙だった父は、それでもいつも姉弟のことを最優先に考えていてくれた。
それをずっと感じていたからこそ、遼は母のことを尋ねはしなかった。
今、父は涙を流すことなく泣いている。
それは懺悔か、後悔か。
その日から父はずっと自分を責め続け、その痛みも苦しみもその胸の内に閉じ込めて生きてきたのだろう。
――もうこれ以上、父を苦しめたくはない。
可能ならその苦しみから解放したい。
その苦しみは、他ならぬ自分たち姉弟のためにあったのだから。
しかし。
だからこそ、これだけは確認せねばならない。
それがどれだけ残酷な問いであったとしても。
「――この話を、姉さんにしたんだね」
湊が心臓に刃物を突き立てられたかのように顔を歪める。
「……そうだ。春華がこの写真を見つけ、私は……一生、誰にも話すまいと決めた話を、最もすべきでない相手にした。そして、春華はいなくなった。すまない、遼。全ては私の過ちだ」
それは静かな、血を吐くような慟哭だった。
春華は母の痕跡を追って教団に接近し、失踪した。
そしてその原因の一端は、間違いなく父がこの話を春華にしたことにあるだろう。
そしてその事実が、父をさらに苦しめている。
遼は姉を危険へと駆り立てたものを理解する。
それは蛮勇でもなければ、名誉への欲でもない。
母への思慕……それはあったかもしれないが、主たるものではない。
きっと姉は、何も語ろうとしない父に食い下がったのだろう。
そして父が隠し続けてきた傷を目の当たりにし、なんとか救おうとした。
父を救うには、母を取り戻すしかないと。
――あの人はそういう人だ。
姉が、そうせざるを得なかった理由が今なら痛いほど分かる。
ならば、遼が父に掛けるべき言葉は一つだけだった。
「――父さん。僕が姉さんと……母さんを連れ戻す。だから待っていて。……僕も必ず、無事に戻る」
湊が遼に、震える手を伸ばす。
しかし、言葉がその喉を震わせることはなかった。
引き止めることなどできはしないと諦めるように、その手がゆっくりと下げられる。
これは父の望みではないかもしれない。
だからこれは遼自身の望みだ。
姉と母を取り戻し、父を救うために。
立ち上がり、親子を無言で見守っていたヒスイと燈に目配せする。
「行きましょう」
遼の言葉に二人は静かに頷き席を立つ。
去り際に、父は何も言わなかった。
「行かないでくれ」とも、「頼む」とも。
――いや、言えなかったのだろう。
リビングを後にするその最後に見た父の背中はとても小さく、今にも消えてしまいそうだった。
その姿が目に焼き付いて、胸の奥を締め付けている。
眼鏡を押さえ、前を向く。
この後は豪雨の予報だ。
雨が降り出す前に、走り出さなくてはならない。




