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断章6 霙 後


 遼はかなたと二人だけで自宅に帰って来た。


 子供たちのいない家は信じられないほど静かで、温度すらいつもより低く感じられる。

 

 赤髪の男の言葉を信じるなら明日、何かが起こるのだろう。

 あるいは、その言葉通りにしたお陰で何も起きないのかもしれない。

 そうなれば男の言葉の真偽は闇の中だが、そうなればいい。


 何事もなく明日が終わりさえすればまた、家族四人で過ごせるのだ。


「……静かだね」

 かなたが二人だけのリビングを見渡し、少し寂しげに言う。

「そうだな……でも、たまにはこういう時間も必要だ」

「それは、精神科医として?」

 かなたはそう言っていたずらっぽく笑った。

「ふ……そうだ。医者として、かなたには休養を命ずる」

 少し演技がかった声でそう言うと、ドン、と胸に柔らかな衝撃が伝わる。

 視線を下に向けると、湊の胸に顔を埋めるかなたの艶やかな銀髪が目に入る。

 

「……不安なの。幸せすぎて。何もかも、雪みたいに溶けて無くなっちゃうんじゃないかって」

 湊にしがみついたまま絞り出した声がくぐもる。


 その切実さは、本当にかつて全てを失ったことがある者の慟哭のようだった。

 以前かなたは湊に繰り返し見る夢の話をし、理由も分からぬまま涙を流した。

 

 湊には彼女が失ったものが何なのかを知る由もない。

 かなた自身も、自らの傷の正体を知らないまま、今なおその痛みだけを感じ続けている。

 

「大丈夫だ。……君はもう何も失ったりしない」

 それはなんの根拠もない、欺瞞に満ちた言葉だ。

 だからせめて、かなたを抱く腕に力を込めた。

 

「記憶を取り戻してあげられなくて、ごめん」

 腕の中でかなたが身じろぎする。

「ううん。13年間、私は幸せだった。あなたと出会ってからの7年は、もっと」

 蒼玉の瞳が湊を見つめる。

「春華が生まれてからの2年。遼が生まれて、もう3ヶ月。……どんどん積み重なって、ふふ、潰れてしまいそう」

 その目が柔らかく笑む。

「だからもう、それより古い幸せはなくても、平気」

 瞳が揺れ、微かに涙が滲む。

 

 湊には分かる。

 記憶を失う前のかなたは、きっと温かな幸せに囲まれていたはずだ。

 天性の明るさと優しさで周囲に幸せを振りまき、その光の中で生きていくはずのごく普通の少女だった。


 だけど、幼い彼女はその全てを失った。


 その記憶を取り戻すということは同時に、それを失った際の記憶も甦るということだ。

 全てを奪われた記憶が。


 かなた自身、それを恐れているのではないか。


 そして湊は、記憶が戻ればかなたは自分から離れていってしまうのではないか。

 あるいは湊の知る彼女ではなくなってしまうのではないかと恐れていた。

 

 いつか、その記憶が戻ってしまうのではないか、とも。


 その想いは、かなたへの裏切りに他ならない。


 医者という立場で“記憶を戻す”ことを口実に近づき、本心では彼女の記憶が戻るのを拒んでいる。

 

 ――かなたを失うことを恐れている。


 胸中にとぐろを巻く、どこまでもエゴイスティックな感情に自ら嫌悪する。

 

 それでも今この時は腕の中にある互いの存在を確かめ、ぬくもりを分かち合うことをやめられなかった。


 このぬくもりを手放しては、もはや生きていくことなどできはしない。

 

 ――そんな風に思ってしまうことすら、自分には許されないのではないか。

 


 

「――明日は久しぶりに映画でも観に行こうか」

 かなたは隣で寝息を立てている。つまり、これはほとんど独り言だった。

「……ぅん? 楽しみ……」

 独り言のつもりだったが、半分夢見心地といった様子で返事があった。

 すぐにまた、規則正しい寝息が聞こえ始める。

 

 どうせ見るなら、ハッピーエンドがいい。

 苦難を乗り越え、最後にはみんな揃って大団円を迎えるような。

 

 湊はかなたに布団をかけ直し、その寝息に耳を澄ましていると自らも微睡(まどろ)みの中に落ちていった。

 


 ――そして、三日目の朝が来る。


 湊は目覚ましが鳴るより数秒早く目覚めた。

 身体に染み付いた、いつもの時刻だ。

 まだ眠っているかなたを起こさないよう気をつけながら寝室を後にする。


 着替えながらテレビを点けると、ちょうど天気予報のコーナーだった。

 今日は一段と冷え込み雪になるらしい。

「傘を持って行かないとな」

 最寄りの映画館には駐車場が無いため、電車で向かうことになる。駅までは徒歩で十分といったところだ。

 

 今上映している映画を調べたいが、あいにくと長らく映画館から足が遠のいていたため映画雑誌などはない。

 新聞で映画のタイトルと上映時間を見てみたが、いまいちピンとくるものはなかった。

「まあ、現地で選べばいいか」

 そう独りごち、新聞をテーブルに置く。


 食パンを二枚トースターに放り込み、熱したフライパンに卵を二つ割り入れる。

 かなたは半熟が好みだが、湊は両面を焼き固めたものを好む。なので、先に一人分を皿に取り、残りを好みの固さに焼き上げていく。

 コーヒーを揃いのカップに注いだところでかなたが起きてきた。

「あ。朝ごはんしてくれたんだ。ごめん、寝過ごしちゃった」

「おはよう。俺が勝手に早く起きただけだよ。さあ、食べよう」

 申し訳なさそうにするかなたをテーブルにつかせる。

「いただきます」

 二人揃って手を合わせる。

「そう言えば、今日はなんの映画を観るの?」

「えっ……」

 あの時ちゃんと意識があったのかと驚き、思わずかなたの顔を凝視する。

「あ……あれ? 夢だった?」

 かなたは狼狽し、顔を真っ赤にしている。

 その様子が可笑しくて――愛おしくて、たまらず湊は笑い出した。

 普段は見せないような笑い方に、キョトンとしたかなたに言う。

「言ったよ。寝てたかと思ったけど」

 からかわれたと気づいたかなたは一層顔を赤くしてむくれている。

 

 むくれるかなたを宥めすかして準備をし、家を出る。

 その頃には機嫌はすっかり直っていた。


「あ、雪」

 空には黒雲が重く垂れ込め、雪がちらついていた。

「はい、傘」

 傘を手渡すと楽しそうに開き、くるくると回転させる。


 いつもなら登校する小学生が列をなしている時間帯だが、今朝はその姿がない。恐らく春休みなのだろう。

 

「雪が降ると静かに感じるよね」

 先を行くかなたがそう言って振り向く。

 雪のような銀髪が靡いて、光を放つ。

「そうだな」

 本当に静かだった。

 まるで、世界が凍りついたように。


 それは突然だった。

 裏通りから表通りへと出る直前、目の前を黒塗りの車が塞ぐ。

 咄嗟に振り返ると、後ろも同様に塞がれている。


 眼前の車のドアが開き、黒づくめの男が降りてくると(うやうや)しい所作で後部座席のドアを開く。


 その中から現れたのは、一人の女だった。

 

 年は二十代前半。

 燐光を放つ純白のローブに身を包み、腰まである黒髪は天の川のような輝きを宿している。

 その姿は、芸術家が生涯をかけて彫り上げた精緻な彫刻のように――あるいは精密な工業製品のように()()()()をもってそこに存在していた。


 女が地に立った瞬間、この裏路地だけ世界から切り離されたように空気が張り詰める。


 ドサッと足元で鈍い音がする。

 その姿を認めた瞬間、隣に立っていたかなたは傘を取り落とし、その場にへたり込んだ。

 目を見開き、顔は青ざめ、その華奢な体は目に見えるほど震えている。

 

「かなた!?」

 湊の呼びかけにも何の反応もなく、かなたはただローブ姿の女を凝視してガタガタと震えている。


 女が一歩、前へ出る。

「やっと、会えましたね」

 囁くような声なのに、十歩ほどの距離を一切減衰することなく鼓膜に届く。

 

「――()()()()

 

 その顔が美しく笑みを作る。

 ゾッと全身の産毛が逆立ち、本能が危機を告げる。

「……今は綾織かなた、でしたか?」

 かなたは女の言葉が聞こえているのかいないのか、地面に座り込んだまま固まっている。

 

「……お前は何者だ」

 湊は震える足を奮い立たせ、女を睨みつける。

 かなただけに注がれていた女の視線が湊を捉えた瞬間、ドンと背中に衝撃が走り前へと押し倒される。

 衝撃に脳が揺れ、目の前が白くなった。

 溶けた雪で濡れたアスファルトの冷たさが、飛びかけた意識を強引に引き戻す。

 首を捻り、自分の上にのしかかり腕を捻り上げている相手を見る。

 目深にかぶったフードの影に見えるその顔には覚えがあった。

 あの、赤髪の男だ。

 

「あ……あんたは……ぐぁっ!」

 湊がそう言うと男は湊の腕を一層強く締め上げる。何も言うな、という意思表示だろう。


「さて、邪魔が入りました。リベルテ、あなたには私と来てもらいます。喜びなさい。故郷に帰れるのですよ」

 腕を広げて喋るその姿は、まるで何かの役を演じているように映った。

「――あら、立ち上がれないようですね。お連れして差し上げて」

 女がそう言うと、車内からもう一人男が現れ、最初に降りてきた男と二人でかなたに迫る。

「や……やめろ! かなた! 逃げ――」

 さらに強く腕を捻られ、声が詰まる。


 依然、茫然自失で脱力しているかなたを無理やり車に押し込む。

 ドアが閉まる直前、かなたの青い瞳が湊を捉える。


 ――その時、茫漠としたその目に、確かな光が宿ったように見えた。

 

 女は湊を一瞥もすることなく車に乗り込むと、低いエンジン音を残して去っていった。


 湊は何もできず、ただそれを見送る。

 不意に締め上げられていた腕が弛み、のしかかっていた赤髪の男が立ち上がる。


「あの女の事は忘れろ」

 低い声が響く。

 湊は身を起こすことすら忘れ、車が去った通りを見つめている。

「お前にできるのは、子供たちを守ることだけだ」

 男はそう言い残すと足音もなく去っていった。


 一人裏路地に残された湊は天を仰ぐ。


 いつしか雪は、雨混じりの(みぞれ)になっていた。

 

 

 

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