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断章6 霙 前


 一度は近づいていた春の足音は、再び遠ざかって行った。

 

 ここ数日は肌寒いを通り越して、一度はしまい込んだ外套(コート)を引っ張り出さざるを得なかったほどだ。


 それでも、湊の心は清々しく晴れ渡っていた。

 それこそ柄にもなく鼻歌でも歌いたくなるほどに。


 二子である遼が生まれて三ヶ月が経ち、母子ともに健康。

 二才になる長女の春華はすくすくと育ち、驚くべきことに既にひらがなの読み書きができるようになった。

 結婚後に独立して開業したクリニックの経営も軌道に乗り、全てが順風満帆に思える。


 一つ気がかりがあるとすれば、実家である一ノ瀬家との関係だ。

 旧家である一ノ瀬家は、なによりその存続とメンツを重んじる。故に、湊には毎年のように名家の御令嬢との見合いの打診が来ていた。

 それを毎度、仕事が忙しいなどと理由をつけて断っていたかと思えば、突然生まれも分からない相手と結婚すると言い出したのだ。

 父はなんとか湊を翻意させようとしたが折れず、結局半ば勘当される形になった。

 かなたは自分のせいで湊が実家と不仲になってしまったと気に病んでいた。

 それに対して湊は、無礼を働いたのはむしろ一ノ瀬家の方だとかなたの非を認めなかった。


 それでもいつかは、孫の顔でも見せればきっと父も理解してくれると湊は考えていた。

 そうやって周りの誰も彼もが幸せに笑い合える日が、その内やって来るのだと。


 今はとにかく仕事に打ち込もう。

 きっとそれが、この小さな家族を守るための唯一の道だと湊は信じていた。


「鈴木さん、診察室へどうぞ」

 看護師が声をかけると長身の若い男が診察室に入って来た。

 燃えるような赤い髪で、日本人にも外国人にも見える顔の男だ。

 厚着をしていても分かるほどに鍛え抜かれた肉体は、その男が只者ではないということを雄弁に物語っている。

 同時にその名状し難い異質さが、かなたと初めて会った時に似ている、とも感じていた。

 

 男は足音もなく歩み寄ると、静かに椅子に座る。

「鈴木さんは初診ですね。どうされました?」

 一目見て、その男が精神科に通うような人間ではないことが分かる。目に宿る光が、その強い意志を示していたからだ。

 

「一ノ瀬湊だな」

 男の声は見た目の若さからは想像できないほど低い。

 名前を呼ばれた湊は、自分の胸の名札をチラリと見てから答える。

「そうです。これからあなたの――」

「一ノ瀬春華と一ノ瀬遼」

 

 男の口から子供たちの名が出てきた瞬間、息が詰まった。

 

 壁にかけられた時計の秒針が時を刻む音が、心拍とリンクして大きく聞こえる。

 冷や汗が吹き出し、何か言おうとしたのに言葉が出ない。

 

「二人をすぐに隠せ。さもなくば三日後、お前は全てを失う」

 それだけ言うと、男は立ち上がり踵を返す。

「っ……! 待ってください、それはどういう――」

 我に帰り、その真意を問い質そうとしたが男は一瞥もくれることなく診察室を去っていった。


 それからは一日中、男の言葉が頭の中をグルグルと回り続けていた。

 その後数人の患者と話したはずだが、いつもは漏れなく覚えているその内容を思い出すこともできない。


「湊さん、大丈夫? 疲れてるんじゃ……」

 夕食中、茶碗を持ったまま固まっていた湊に、かなたが心配そうに声をかける。

「え……? ああ、ごめん。ぼーっとしてた」

 そう返して笑って見せるがかなたの表情は晴れない。

 

 かなたこそ育児で疲れ果てているだろうに、それ以上に湊を気遣ってくれている。それが分かっているからこそ、なおさら平静を装おうと努める。

 

 ――湊は一人、決断する。

「……春華、明後日は父さんお休みだから、ひい爺ちゃんのお家に行こうか」

「ひいじぃじ! ひいばぁば!」

 春華はキャッキャと喜んでいる。

 およそ二歳児とは思えない言語能力だが、かなたもほんの一年で日本語を操れるようになったというから遺伝なのかもしれない。

 

 ひい爺ちゃん、というのは湊にとっての母方の祖父のことだ。

 一ノ瀬家とは絶縁状態にあったが、母方の実家とは良好な関係を作れており、母も交えて幾度か子供たちを会わせている。


 祖父の家なら安全だろう。

 あの男の言葉を信じたわけではない。

 それでも、どうしても無視することができない何かが、あの男とその言葉にはあった。


 かなたの視線を感じる。

 勘のいい彼女は、湊の様子に何かを感じたかもしれない。

 それを誤魔化すように笑顔を作る。

 

 けど、そうだ。

 かなたに作り笑いが通用したことは、一度だってなかったのだ。



 

「春華ちゃん、大きくなったねぇ」

 祖母に抱き上げられた春華がくすぐったそうに笑っている。

「そっちが遼か、初めましてだなぁ」

 かなたが抱いている遼を、祖父が満面の笑みで眺めて言う。

 遼はそんな祖父を不思議なものを見るようにじっと見つめていた。


 玄関先でひとしきり話した後、家に上がった。

 郊外に建つその古い平屋は、なんでも江戸時代からここにあるそうだ。

 歩くたびにギシギシと軋む廊下も、漂う畳の匂いも湊が子供の頃と何も変わらない。

 それはまるで、百年も前から時が止まっているかのようだった。

 

 宴会でも開けそうな、広い畳敷きの居間に大きな長テーブルが置かれている。

 春華は祖母の膝の上で、そこに山積みにされたお菓子を目を輝かせて物色していた。


 湊は正座し、姿勢を改めてから本題に移る。

「子供たちを二、三日ほど預かってもらえませんか?」

 祖父と祖母は目を見合わせる。

「そりゃあ構わんが、なんかあったのか?」

「……いえ、かなたも少し育児で疲れているので休ませたいと思って」

 妙な患者におかしな警告をされて、などと言えるはずもない。

 それでも嘘をついた居心地の悪さに背中がチリチリとした。

 

「遼はいい旦那さんねぇ。いいよ。かなたさん、ゆっくり羽を伸ばしてね」

 祖母がいつも通りのおっとりとした口調で言う。

「ありがとうございます」

 かなたが笑顔で頭を下げる。

 かなたに休養を、というのはあらかじめ本人にも話した口実だったが、彼女はその奥にある湊の真意を量りかねている様子だった。

 

「いいのよ。可愛いひ孫と過ごせるんだから、感謝したいくらいだわ。……でも、春華ちゃんは寂しくない?」

 膝の上の春華に顔を覗き込むようにして言う。

「はるかはへーき! もうおねえちゃんだから!」

 その返答に祖父も祖母も目を丸くして驚いている。

「春華ちゃん、まだ二才よね? 賢い子だとは思ってたけど……」

 湊は苦笑を浮かべる。

「……きっと、早熟なだけですよ」

 

 口ではそう言ったが、これは湊の願望だった。


 特別な子なんかでなくてもいい。

 ごく普通の女の子として、ごくあたりまえの幸せな人生を送って欲しい。

 それが、偽らざる湊の本心であり、切なる祈りだった。


 だけどこの世界に、()()()()()なんて、存在しなかったのだ。

 

 

 

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