第十二話 表 家族の肖像 前
頭上にはねずみ色の雲が重く垂れ籠めている。
午後からは豪雨の予報だ。
半年ぶりに見上げた実家は、閑静な住宅街に溶け込むように佇んでいる。
今では年に一、二回帰ってくるだけになったが、生まれてからの18年間を過ごした遼にとって紛れもない”我が家”だ。
――にも関わらず、遼は玄関のドアノブに手を掛けられずにいた。
父、湊から届いたメールは、いつも通りシンプルな文面だった。
『春華と母さんについて話がある。都合が良い時に帰って来てくれ』
その短いメールはしかし、遼を動揺させるのに十分な質量を持っていた。
父は春華の失踪を知っているのだろうか?
そして、27年前に亡くなった母の話をなぜ今するのか。
それは今まで、父自身が触れてこなかった話題だった。
幼い頃の姉はしばしば母のことを父に尋ねていたが、父はそれをいつもはぐらかすようにいなしていた。
存在しているのかも分からないが、姉弟には写真の一枚すら見せてくれない徹底ぶりだったのだ。
それを見ていた遼は、父の対応に違和感を覚えながらもその傷に触れることを避けるように一切その話題を口にしなかった。
ドアノブに手を伸ばしかけて、なおも逡巡する。
いつもは、どうやって入っていたのだろうか。
チャイムを鳴らしていたのか、そのままドアを開けていたのか、それすら思い出せない。
「――遼」
手を伸ばしたまま固まる遼を見かねたヒスイの声に、遼の肩が揺れる。
ヒスイは気遣うように遼の顔を見上げている。
その透き通る瞳を見ていると、詮無き悩みが霧散していく。
「……すみません。入りましょう」
ドアノブに手をかけて引くと、ガチャリと音がしてドアが開く。
一瞬不用心だな、と思ったが自分のために開けておいてくれたのかもしれないと考え直した。
「――ただいま」
父に届くよう普段より張ったつもりの声は、静かな家の中に吸い込まれるように消えた。
嗅ぎ慣れた匂いがするが、それがなんの匂いなのかは分からない。
それはただ”実家の匂い”として脳に刻まれている。
少しすると、薄暗い廊下の先からドアが開く音がし、足音が近づいて来る。
廊下の奥から現れた父は、最後に会った時と変わらぬ姿だった。
いや、少しだけ白髪が増えただろうか。
「おかえり遼。そちらのお二人は?」
湊は遼の後ろに立つヒスイと燈を見る。
遼が女性を家に連れて来るなど初めての事だったが、いつも通りの落ち着いた物腰だった。
「……仕事の、協力者だよ。詳しい話は父さんの話を聞いてからするよ」
「そうか、それがいいだろうな」
二人は互いに同じものを隠している。
そう確信したやり取りだった。
リビングのソファーに、テーブルを囲むようにして座る。
湊は冷えた緑茶の注がれたグラスを四つ、盆に載せて持ってくるとそれぞれの前へ置いた。
「ありがとうございます!」
燈が礼を言うと、湊は薄く微笑んだ。
それは子供の頃から何度も見てきた、疲れ果てたような作り笑いだ。
「少し、待っていてくれ」
グラスを配り終えた湊は一度リビングから出て行き、一分ほどで戻って来た。
その手には葉書ほどの大きさの紙が握られている。
湊が遼の正面に座り、その紙をテーブルの中央に静かに置く。
それは、一枚の写真だった。
時の流れを証明するように色褪せてはいるが、しわ一つなく角の立ったそれは大切にされていたこともまた証明している。
遼は息を呑んでその写真を凝視する。
そこに写されていたのはこの家をバックに立ち、赤ん坊を抱く銀髪の女性と、その足元にしがみついている小さな女の子の姿だった。
柔らかく微笑む女性は、その白銀の髪色も相まってこの世のものならざる存在感で、ありふれた住宅地に立っている。
「この人が……母さん?」
「……そうだ」
少しの沈黙の後、湊が肯定する。
抱かれている赤子が遼で、足元の女の子が春華だろう。
ヒスイがじっと、写真を見つめている。
きっと遼と同じことを感じたのだろう。
――この女性はこの世界の人間ではないと。
「母さんは……かなたは記憶喪失だった。九才の時に養護施設に入り、それまでの記憶が一切失われていた」
父が過去を語る姿を遼は初めて見た。
その表情も言葉も淡々としていたが、遼にはその姿が苦しみ、血を吐いているかのように映る。
「かなたが十五の時にその治療のために私の病院を訪れ、それからカウンセリングと治療を続けていたが結局、彼女の記憶が戻ることはなかった」
湊はグラスに手を伸ばし、口をつける。
「――ここからは、かなたがいなくなった日の話になる」
父の言葉が核心に触れる。
だが、すでに遼の知っている話と齟齬が生まれていた。
「いなくなった? 亡くなったんじゃ?」
湊は遼の目を見るが、問いには答えない。
「……27年前、お前が生まれたその年の春……いや、あれはまだ冬だったのか」
テーブルの一点、その上に置かれた写真を見つめながら湊が静かに語り始める。
記憶のページを手繰り、愛おしむように。
あるいは、
――癒えぬ傷口の中に、自ら刃を突き立てるように。




