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序章 断・前

 ゲートを一息に乗り越え両足で着地する。

 傾いだバックパックが重力に引かれ、ずしりと存在感を増すがアスファルトを踏み締め押さえ込む。


 侵入者を出迎えたのは異様なまでの静けさだった。

 木の葉の揺れる音すらこの場所には届かない。写真の景色に踏み込んだのかと錯覚する程に。

 音はおろか熱も届かない。時すらも、その切り取られた瞬間で凍りついているかのようだ。


 息を呑みながらも入り口を探して正面玄関から右手へぐるりと回り込む。

 外からの印象通り建物そのものはそこまで古びてはいないが蔦を這わせ、踏み入る者を拒むその雰囲気は太古の神殿を思わせた。


 裏手に回り込んだところで破れた窓を見つける。

「ここから入れるか」

 肩の高さにある窓枠の下辺に残ったガラスを、近場に転がっていた石で叩き割る。

 床に落ちたガラス片は窓の向こう側に乾いた音を響かせるが、それも束の間の事。すぐにまた耳が痛いほどの静寂が辺りを支配した。


 窓から覗き込むと中は更に薄暗い。

 食堂か何かだろうか、白いテーブルが整然と並んでいる。

 窓枠を指先でそっと撫でてから掴み、一気に体を持ち上げる。

 窓枠を体が通過しようとした時、左腕に鋭い痛みが走った。

「ッ——!」

 床に降り振り返ると窓枠の右手に鋭利なガラス片が残っていた。

「こいつの仕業か」

 そこまで深くはなさそうだが既に血が滲み、灼けるように痛む。

「お気に入りだったんだがなぁ……」

 右手で頭を掻き、破れてしまったジャケットの袖をため息混じりに眺める。

 バックパックを下ろしジャケットを脱ぎ、それを無造作に突っ込むと代わりに包帯を取り出した。

 新人の頃、春華に持たされた「記者七ツ道具」の一つ、救急セットだ。

 「初めて役に立ったな」

 懐かしさに笑みが溢れ、入れ替わるように寂しさが滑り込む。


 ——寂しさ?

 違う。


 これは後悔だ。


 なぜあの時先輩を一人で行かせてしまったのか。

 危険だと分かっていたはずだ。俺も、そして先輩自身も。

 ならばこそ、無理を言ってでもついて行くべきだった。

 先輩を救えなければきっと、俺は俺を許せない。


 アルコールで消毒してから右手に包帯を握り、なんとか左の二の腕に巻き付けようと格闘するが上手くいかない。

「使い方も教えといて下さいよ……」

 ——いや、多分あの人も巻けないだろうな。本当に、本当に不器用な人だから。


 その仕上がりは実に無様なものだった。

 巻き方がゆるい上、末端の処理が甘く今にも解けそうな仕上がりだ。とは言え、とりあえず傷口を覆えていれば良しとしておく。


 残った包帯をしまい、クリップライトを取り出すとワイシャツの胸ポケットに取り付けスイッチを入れる。これも七ツ道具の一つだ。


 改めてぐるりと室内を見渡す。カウンターの奥には厨房が見える。やはりここは食堂のようだ。

 長らく使われた気配はなく、テーブルも厨房も埃を被っている。

 微かな、黴臭さ。


 廊下へ出る。

 白を基調、というよりほとんど白一色に統一されたそれは病院を思わせる。

 窓から差し込む夕陽が白い廊下を琥珀色に染め、景真の影を長く、長く伸ばす。


 誰そ彼時。


 ここはきっと此岸と彼岸の境目だ。渡ってしまえばもう戻ってはこられない。そんな予感が景真を、かえって前へと踏み出させる。


 廊下を進むと突き当たりに縁を金色に装飾された両開きの大きな扉が現れる。扉の上には「礼拝室」の文字。

 左右の持ち手を掴み、扉を引き開く。


 中は暗闇だった。

 窓一つない礼拝室の中を、扉から差し込む光と景真のクリップライトだけが照らしている。広さはちょっとした会議室くらいだろうか。

 机も椅子もなく、ただ正面に祭壇が据え付けられている。


 そこに座すは純白の女神像だった。

 近寄り、ライトで照らす。

 床にはうっすらと埃が積もっているのに、その像には一切の汚れがない。

 慈愛とも悲哀とも取れる表情に、五枚の翼。その内一枚は無惨に折れている。

 「変わった意匠だな。折れた翼か」

 神を(かたど)ったにしてはどこか現代的な、あるいは機械的無機質さでただ静かに佇んでいた。


 そしてその台座には、この世界には存在せぬ”(ことわり)”が綴られていた。


 “ORPHENA(オルフェナ)”——と。

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