第十話 表 奇跡の淵源 前
バスのドアが音を立てて開き、それを待っていたかのように一人の少女が高く結った黒髪を靡かせ、勢いよく飛び出してくる。
少女は真っ直ぐにヒスイの元に駆け寄ると、大きな帽子ごとその顔を抱き抱えた。その勢いに、遼は一歩後ずさる。
「ヒスイ様ぁあ!」
その声には既に涙が混ざっていた。
「燈、外では”様”はやめて下さい」
ヒスイが燈の頭を撫でながら小声で言う。
「う……じゃあなんて呼べば……」
「そうですね……”お姉ちゃん”、なんてどうでしょう?」
ふふふ、と微笑みながらヒスイが提案すると、燈の顔がパッと輝く。
「……ヒスイ――お姉ちゃん!」
ヒスイを抱きしめる腕に力が入り、尻尾がワンピースの中で膨らむ。
「く……苦しいです、燈。ちょっと落ち着いて……」
タップするように燈の背中をポンポンと叩くが離してもらえない。たっぷり一分ほど経ってヒスイが解放された時には、二人とも汗だくになっていた。
「……ふぅ。ヒスイさ……お姉ちゃん成分を補給できました」
爽やかな笑顔で燈が満足げに汗を拭う。
「一ノ瀬さんもお久しぶりです」
「ええ、神来社さんもお元気そうで」
燈の勢いに少し圧倒されていた遼も、気を取り直して応える。
「燈でいいですよ」
そう言ってニッと笑う燈は、初対面の時の神秘的な雰囲気は微塵も感じさせない、ごく普通の少女だった。
「それにしても、よくお祖父さんが許してくれましたね」
遼の運転する車内後部座席で燈はヒスイにじゃれついている。
ヒスイがアニマの枯渇で倒れた際、いつもの時間にゲームにログインしなかった事を不審に思った燈は遼を問い詰めた。そしてヒスイの体調不良を知ると、会いに来ると言って引かなかったのだった。
「おじいちゃんは『社会経験になるだろう』って言ってました。代わりにお父さんがめちゃくちゃ心配してて付いて来るってうるさくて」
きっと燈の祖父、清光も巫女の役目から解き放たれた燈の将来について思うところがあるのだろう。
「――それにしてもヒスイ様が元気そうで安心しました。倒れられたと聞いた時はどうしようかと思いました」
ヒスイを気遣うその言葉は先ほどまでとは打って変わり、静謐なウカノミタマノカミの巫女としての声色だった。
「ありがとう、心配してくれて」
神聖な雰囲気はすぐさま消え去り、ヒスイの言葉に目を輝かせ、一層激しくじゃれつく燈はよく懐いた大型犬を思わせた。
その姿にふと、姉の前での自分もこんな風に見えていたのだろうかと考えてから頭を振る。
どちらかと言えば、こちらが世話をする方だったのだ。もっとも、春華は遼にベタベタと触れるような事は無かったが。
本音を言えば、教団に狙われている可能性があるこの状況で燈が合流するというのは不安の方が大きい。
今この時にでも襲撃されるのではないか――そんな風に気が張り詰め疲弊しつつあるところに、”守るべき対象”が増えるというのが恐ろしい事に思えた。
こうして運転している間も、教団の車に尾けられていないか、どこかから監視されていないかと無意識に警戒してしまう。
しかし、どうしても二人の「会いたい」という気持ちを無碍にはできなかったのだ。
「わ……おしゃれなお店」
やって来たのは特に高級店という訳でもないイタリアンレストランだ。
個人がやっている小さな店だが、美味いコーヒーを出すので遼はしばしば通っていた。
「予約の時間なので入りましょう」
店構えをキョロキョロと観察している燈に遼が声をかける。
ドアを開くと、冷房の効いた冷たい空気が汗を冷やす。
案内された席に着き、ヒスイが自らの帽子に手をかけると燈が慌ててそれを押さえようとした。
「ちょ……! ヒスイ……お姉ちゃん! 帽子取っちゃ……」
ヒスイはそれに構わず帽子を脱いで燈を見る。
――それは渾身のドヤ顔だった。
「えっ……? それどうなってるの? 耳切っちゃった……?」
そこにあるべき大きな狐耳が見えず、燈は目を丸くして困惑している。
「ふふ、遼のお友達の美容師さんに教えてもらったんですよ」
「うわ……カリスマ美容師ってやつだ……! やっぱり東京はすごい……」
それは死語です、というツッコミが喉から出かかる。
「ところで燈さんは来年、高校受験ですよね? 夏休みとは言え大丈夫ですか?」
「勉強道具も持って来たし、こう見えて結構成績いいんですよ、私」
そう言って横に置いたリュックを手のひらで叩く。
「それに一ノ瀬さん頭良さそうだし、分からないところ教えてください。あ、私も”遼さん”って呼んでもいいですか?」
「名前で呼ぶのは構いませんが、勉強に関しては約束できません。やる事が山積みなので」
同僚から送られてきた教団の情報の精査も滞っているし、家事も当面は三人分こなさなければならない。
やるべき事が明確な刑事の仕事の方が幾分気楽に感じられる状況だった。
「分かりました! よろしくお願いします、遼さん!」
本当に分かってくれたのだろうかと疑問に思いつつヒスイに目をやると、またも真剣な顔でメニューを睨んでいる。
その横に座る燈も参戦し、あーでもないこーでもないと悩みに悩んだ結果、注文が決まるまでに実に10分を要した。
前菜の後運ばれて来たパスタを二人はシェアしながら食べ切り、締めのドルチェに、そして遼はコーヒーに口をつけようとした時スマートフォンが鳴った。
「ちょっと失礼」
遼はスマートフォンを手に一人店を出る。
「……乾さん、どうしました?」
電話の主は乾秀人だった。
乾は少し興奮した声で応える。
「一ノ瀬、今夜病院に来れるか? アニマについて少し分かった事がある」
照りつける太陽が少し冷め、街の雑踏が遠くなったように感じる。
乾は”少し”と言ったが、わざわざ連絡を入れてくるほどだ。何か重大な事実が掴めたのかもしれない。
そしてそれは異世界の存在と、その真実に近づく一歩になるだろう。
「何時ごろ伺えばいいですか?」
「……そうだな、スタッフが全員帰ってから……十九時頃に来てくれ」
「分かりました。ではその時間に」
通話を終え、遼は息を整える。
夜までに、”真理”を垣間見る心構えをしなければならない。
そしてそれが、姉の発見とヒスイの帰還に繋がる手掛かりになる事を祈った。




