断章5 雨傘
「……遼は母さんに、会ってみたいと思うかい?」
小気味の良い包丁の音を響かせる遼の背中に問いが投げかけられる。
いつも明朗な春華の言葉が、その時はどこか躊躇うような翳りを帯びていた。
「……そうだな。興味はある、けど……」
そこまで答えて言葉に詰まり、包丁の切先が静止する。
本音を言うならば、自分が生まれてすぐに亡くなった母の記憶など無いのだから、会ったところでそれは初対面と変わらないだろうと思った。
だが、それは極めて薄情、冷酷な考えに思えて口にするのは憚られた。
「姉さんは、母さんのことを覚えてるの?」
「うーん……」
遼の立つキッチンに背を向けてソファーに掛ける春華は、何かを思い出すように天井を仰いでいる。
「私もまだ小さかったからね。でも、記憶の片隅に残ってるんだ。雪原みたいな銀色の髪をしたとびきり綺麗な女の人が、私を抱いて微笑んでいるのが」
春華は記憶の砂に手を入れて、その中から砂金を見つけるような慎重さで言葉を紡ぐ。
「あの人が母さんなんだって無意識に思い込んでたけど、確信はない。日本人どころか、この世界の人じゃないような……やっぱり夢だったのかな」
遼は再び包丁を持つ手を動かし、一定のリズムを刻み始める。
そして、祈りにも似た願いを口にした。
「もしも母さんに会えるなら、……父さんに会わせてあげたい、かな」
遼は母を失う前の父の姿を知らない。
それでも男で一つで姉弟を育て上げたその大きな背中には、常にどこか深い孤独が呪いのようにまとわりついて見えた。
「……そうだね。私も、そう思う」
春華は噛み締めるように言うとソファーから立ち上がり、キッチンにやって来る。
「たまには父さんに顔を見せなよ。私はこの前帰ったからさ」
最後に実家に帰ったのは正月だから、半年以上経っただろうか。
「そうだな。じゃあお盆にでも帰ろうかな」
「あ、車で帰るならついでに私も便乗させてもらおうかな」
「いいよ。休みの予定決まったら教えて」
「了解した」
会話が一段落ついてもキッチンを去ろうとしない春華を一瞥する。
「……ねぇ、本当に手伝わなくていいのかい? 何かあれば気軽に申しつけてくれたまえよ」
餌を待つ犬のように遼の背後をウロウロしている。
「危ないから下がってて」
「なっ……! 姉の申し出をそんな無碍にしてるとバチが当たるぞ!」
春華は外では才色兼備で通っているが、生活力が死滅している。
遼がこうして定期的に春華の自宅を訪れて溜まっている掃除や洗濯をこなし、料理の作り置きをすることでなんとか文化的な生活を維持していた。
中でも料理の腕は壊滅的で、以前春華の料理を食べた時は三日連続で悪夢にうなされた。
勉強や仕事は器用にこなすのに、なぜ家事だけはこうなるのか遼は未だに解明できずにいる。
遼に手伝いを断られ、すごすごとソファーに引き返した春華がテレビを点ける。
「へぇ、グランピングだって! 茉由ちゃんや秀人君も誘って行ってみないかい? カゲ君も呼んだら来るかな。私は自然が恋しいんだ」
春華は豪華な施設の映像を見て目を輝かせている。
芹澤茉由と乾秀人は遼の大学時代からの友人で、以前ひょんなことで合流した際に春華と意気投合したのだった。
『カゲ君』というのは確か、春華の職場の後輩だったはずだ。
一度も顔を合わせたことはないが、その名を聞くたびに自分の知らないところで笑っている春華の姿を想像してしまう。
そこでふと、春華の友人を遼は一人も知らないことに気づく。
記憶の中にある学生時代の春華はいつでも人に囲まれている人気者だったが、誰にでも明るく分け隔てなく接する一方でどこか一線を引いている風ではあった。
「行ってもいいけど、用意から何から全部僕がやる羽目になるんじゃないか」
頭に浮かんだ危惧をそのままぶつけると、春華が振り返り口を尖らせて反論する。
「何を言ってるんだい。ちゃんと手伝うから安心したまえよ」
「姉さんにやらせたらかえって手間が増えるだろ」
食い気味に言い放つと、春華はショックだったのか頭を垂れた。
「そこまで言わなくてもいいじゃないか……」
やる気はあるのにできないのが本人にとっても不本意なのだろう。
「よし、終わり。それじゃあ帰るよ」
遼がエプロンを脱ぎながら言うと春華が立ち上がる。
「いつもすまないね。助かったよ。雨が降ってるからこの傘を持って行きたまえ」
「車だから大丈夫だよ」
「駐車場まで濡れるつもりかい? また次の時に返してくれればいいだろう」
そう言われ、真っ黒な飾り気のない傘を受け取る。
なんの変哲もないその傘が、受け取った手の中でずしりと重みを増した気がした。
「じゃあまたね、姉さん」
「ああ、気をつけて」
そう言って手を振る春華が、遼の見た最後の姿だった。
持ち主を失った雨傘は、今でも遼の家の玄関に立てかけてある。




