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第九話 表 異世界の急患 後


 玄関にぐっしょりと残る泥混じりの足跡を、遼はげんなりと見下ろす。

 鉄塔からなんとか無事の帰宅を果たしたが、考えるべき事もやるべき事も山積している。

「ヒスイさん、先にシャワーを浴びて下さい。あ、脱いだ服は籠ではなくこのビニール袋に」

 キョトンとするヒスイに袋を手渡すと、掃除用具を手に踵を返し車に戻る。

 どうしても車内が泥水にまみれたままという事実に耐えられなかったのだ。


 猛烈な日差しに晒され、既に泥水は乾きつつあった。

 結局特に汚れていない後部座席まで丹念に清掃し、外装に手が伸びたところでふと我に帰った。

「……流石に今じゃないですね」

 眼鏡を押さえ、後ろ髪を引かれつつも部屋へと戻る。

 

 鍵を開け中へと入ると、家の中は静まり返っている。

 疲れて寝てしまったのかと考えたが、布団があるリビングにヒスイの姿は無い。

 エアコンが小さく唸り、心臓がその拍を速めた。

 小一時間は掃除に費やしたことを考えるとまだ風呂場にいるとは考え辛い。

 それでも一応声をかけてから洗面所の引き戸に手をかける。

「ヒスイさん? 開けますよ」

 その語尾が微かに揺れる。

 返事はない。

 そっと戸を開けると、足元に裸のままうつ伏せに倒れているヒスイの姿があった。

「大丈夫ですか!? ヒスイさん!」

 バスタオルを巻くようにして仰向けにする。

 そこから伝わる体温は低く、小さく開いた口から苦しそうな息が漏れている。

 そのまま抱き上げてヒスイの布団に寝かせて再度声をかける。

「ヒスイさん、意識はありますか?」

 ゆっくりと瞼が上がり、遼を見る。

「……遼」

 紫色の唇が弱々しく返事をする。

「少し、アニマを使い過ぎたようです。きっと……一晩眠れば良くなります」

 生命の危機に晒されたことで未来視の力が過剰に働いたのだろうか。

 ヒスイは薄く微笑んで見せる。

 遼に心配をかけまいと作った笑顔は、一層強くその胸を締め付ける。

「……分かりました。今は寝ていて下さい。あとで温かいものをお持ちします」

 ヒスイはそれに返事をするように、ゆっくりと目を閉じた。


 結局遼が作った粥は喉を通らず、翌朝になってもヒスイの容態が良くなることはなかった。

 そこで悩み抜いた挙句、業を煮やして乾に連絡を入れたのだった。


「つまり、雨の中カルト教団の手先と一戦交えて帰って来たら倒れたと」

 乾が呆れたようにため息をつく。

「アニメの見過ぎだ、と言いたいところだが事実なんだろ? で、気になったのは一点だ」

 グッと遼に顔を寄せる。

「アニマとはなんだ? あれはどう見ても雨に濡れて風邪を引いたって症状じゃない」

 遼は少し言い淀む。

 ヒスイから抽象的な説明を聞いただけで、それがどういうものなのか正確に理解できてはいない。

異世界(ネビュラ)に満ちていて、そこに住む生物も体内に持っているエネルギーのようなもの……と聞いています」

 乾は手に持った血液検査の結果が印刷された用紙をじっと見る。

「驚いた事に彼女の血液組成は、地球人のそれと殆ど変わらない。ただ、血糖値が異常に低い数値を示してる」

 用紙の上の血糖値の項目をピンと人差し指で弾く。

「つまり、アニマとやらの枯渇を体のエネルギーを使って補おうとしている可能性がある」

「そう言えば……力を使った後はお腹が空くと言っていました」

 乾は両膝に手をつくと、重たそうに立ち上がる。

「じゃァ点滴だな。というかこれしか打てる手が無いが。また針刺すから悪いが少し起きてもらってくれ」


 倍量の点滴を入れるとヒスイの顔色は徐々に良くなり、呼吸も落ち着いていった。

 点滴が落ちきる頃には目を覚まし、針が抜けるとすぐさま自らの足でトイレに駆け込ん行った。

「……本当に助かりました」

 遼が心底安堵したように言う。

「ツケにしとくから落ち着いたら酒でも奢れ。どうせ保険なんか無いんだろ?」

「……なるべくいい店を用意しておきます」

「あァ、楽しみにしとくよ。でもお前、そんなもん知ってんのかよ」

「私も、色々と付き合いがありますから」

 眼鏡を押さえてそう答えると、乾が歯を剥いて笑う。


「一ノ瀬」

 トイレから戻って来たヒスイと帰ろうとした別れ際、白衣のポケットに手を突っ込んだ乾が遼を呼び止めた。

「今回採ったヒスイさんの血液、調べてみてもいいか? アニマについて何か分かるかもしれん」

 遼はヒスイと目を合わせる。

 ヒスイが頷くのを確認すると乾の目を見て言う。

「是非、お願いします」

 乾は「おう」とだけ短く答え、右手だけポケットから出して挙げる。

「車を回します。ここで待っててください」

 一人でコインパーキングに向かうその後ろ姿は、来院した時よりも大きく見えた。

 

「乾さん、ありがとうございました」

 ヒスイは乾に向き直ると深くお辞儀をし、落ちそうなった麦わら帽子を慌てて押さえる。

「ええ、お大事に」

 その後に続く言葉を乾は飲み込みかける。

 しかし、飲み込みかけた言葉は口をついて出た。

「柄じゃァないんだが……あいつの……一ノ瀬のことよろしく頼みます。あいつは昔から優秀で、いつだって冷静だったけどいつも張り詰めてて、そのクセ独りになりたがる奴だった」

 途中で照れ臭くなりボリボリと頭を掻く。

「俺の知る限り、あいつが他人を自ら傍に置くなんて初めて見た。だから、見ててやって欲しいんだ」

 ――壊れてしまわないように。

 それは言葉にはしなかった。

 

 硬い氷のように鋭く冷たいが、何かあれば簡単に砕けてしまいそうな危うさを乾は遼に対してずっと感じていた。

 その遼が唯一隙を見せるのが、姉である春華の前だった。

 しかし今は、その春華もいないという。

 遼は春華の生存を信じているし、乾もそう願っている。だが、もしもその希望が失われた時、遼を留めている危うい均衡もまた崩れてしまう気がするのだ。

 

「……わたしは、遼に助けられてばかりです」

 ヒスイが一つずつ言葉を選びながら言う。

「だから、あなたが心配しているようなことにはさせません」

 そう言い切り、真っ直ぐに乾を見る。その眼差しは心の奥底まで見透かされているように感じるのに、不思議とそれが不快ではなかった。

 

 遼が病院の前に車を停めて降りてくる。

「どうかしましたか?」

「お前の話をしてたんだよ、この幸せモンめ。……ったく、なんでお前の周りには美人ばっかり……」

 脇腹を小突かれた遼が反撃を試みる。

「それはさておき、少し痩せた方がいいですよ。三十手前でその腹は……」

「医者に医者みたいな事言ってんじゃねェ! 昔から『医者の不養生』って言うだろ。医者なんて体壊してナンボなんだよ」

 開き直る乾に、遼が呆れ顔を向ける。

「えっ、お二人は年が近いんですか?」

 ヒスイが目を丸くしている。

「乾さんは大学の同期ですよ。浪人されてるので私の一つ上ですが」

「余計なことは言わんでいい」

「……」

 ヒスイが何かを言おうとしてやめた気配がしたが、言いたいことは明確に伝わってしまっていた。

「……どうせ俺は老けてますよ」

 そう言って拗ねて見せる。

 そして、数年ぶりに遼のぎこちない笑顔を見たのだった。


 陽炎の中に遠ざかる車を見送り、院内へと戻る。

 外にいたのは僅かな時間だったが、白衣の中はじっとりと汗ばんでいる。

「……さてと、”親友”のためにもう一仕事して行きますかね」

 倉庫で埃を被っていた顕微鏡をデスクに置き、汗ばんだ白衣を脱いだ。


 その目には友との約束と、好奇の熱が宿っていた。

 

 

 

 

 

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