第九話 表 異世界の急患 前
静かな診察室にコーヒーの香りが漂う。
内科医、乾秀人は午前までの診療を終え、無人になった院内で背もたれに身を預けてスマートフォンを弄っていた。
「飯食ってパチンコでも行くか」
ぬるくなったコーヒーを飲み干し、突き出た腹をさすって立ち上がろうとしたその時、左手のスマートフォンが激しく振動した。
画面を確認すると、久しく会っていない名前が表示されている。
「……ご無沙汰じゃないか。……なんだ、お前が慌ててる声なんて初めて聞いたよ。……知り合いを診て欲しい? 今日は午後は休診だぞ。まあ、お前の麗しき姉君なら喜んで診るけどな。……あァもう、分かったよ。ただし昼メシを買って来い。もちろん奢りでな」
電話を切って、頭を掻く。
「……あいつが頼み事してくるなんてな。雪でも降るんじゃないか」
独りごちてブラインドの隙間から外を見ると、灼熱の太陽が街を焼いていた。
「降ってくれてもいいんだがなァ」
もたれるように椅子に座り天井を仰ぐ。
エアコンが一際大きな音を立て冷風を吐き出し、何か冷たいものが背筋を滑り落ちたように感じる。
――何かが始まろうとしている。
いつだってこういう”嫌な予感”に限って当たるのだ。
「馬券は当たらねェのにな」
誰にともなく呟いて目を瞑った。
三十分ほど手持ち無沙汰に待っていると、大きな麦わら帽子を被った女性を支えるようにして旧友が来院した。
「おいおい、こりゃまたえらい別嬪さんを連れてきたな。……とりあえずそこに座って」
待合室のソファーに女性を座らせるが、座っているのも辛そうだった。
「この方が……?」
女性が口を開くが、その声は静かな院内にあってなお消え入りそうなほど小さい。
「ええ、友人で医者の乾です」
紹介を受けて女性の前にしゃがみ、白衣の胸ポケットからペンライトを取り出す。
「ちょいと失礼」
瞳孔は正常。
が、覗き込んだ瞳の中、その透き通った翠緑の中に吸い込まれたと錯覚した。――それは間違いなく錯覚だったが、心臓が早鐘を打っている。
乾はその動揺を抑え込むように小さく咳払いをして視診を続ける。
年齢は二十代半ばから後半。
呼吸が浅く、発汗がある。
熱に浮かされたような表情にも関わらず、その顔は紙のように白い。
女性に体温計を差し出すと、弱々しくそれを受け取ると脇に挟んだ。
三十秒ほどで電子音を鳴らし、示された数字は三十五度一分。
あまりの低さに体温計の故障を疑い額に手を当てて確かめると、その冷たさにゾッとする。
立ったまま無言で見守っている友人に向き直る。
「で、わざわざ休診中に俺のところに連れて来たってことは訳アリなんだろ? ――一ノ瀬」
「ええ。まずは見てもらった方が早いでしょう」
遼はヒスイの帽子に手をかけ、脱がせる。すると押さえつけられていた大きな耳が屹立した。
「……一ノ瀬、まさかお前が病人にコスプレさせて喜ぶ変態だとは知らなかったぞ」
ヒスイの耳がピクッと動く。
「ん? やたらリアルな動きだな。最近のグッズは進んでるな」
乾は感心したように耳を観察する。
髪の毛と同じ色の毛で覆われ、微かに震える大きな耳を見る内にその顔色が変わる。
「……いや、これ本物なのか? まあいい、まずは彼女を診察室に」
乾は受け入れ難い現実を前に明らかに動揺していたが、その動揺をすぐに引っ込めた。それが目の前の患者に対する彼のスタンスなのだろう。
遼は黙って頷くと、ヒスイをおぶって乾の後を追う。
背中のヒスイは、重みは確かにあるのにそこにあるべき温もりが無く、生の気配が薄らいでいるように感じられた。
診察室にヒスイの寝息が響いている。
だが、浅く苦しげなそれはとても「安らかな」とは形容できない。
「――つまり、この……ヒスイさんは異世界人で、春華さんも異世界に連れ去られたかもしれない、と」
これまでのあらましを掻い摘んで説明すると、乾は無精髭の生えた顎を撫でながら一点を見つめて考え込んでいる。
無論、これ以上多くの人間へ情報を広げる事に躊躇いはあったが、事態は急を要すると判断して話す内容は頭でまとめていた。
「……お前がそんな冗談言う奴じゃないってことはよーく知ってる。でも流石にこいつは『はいそうですか』と飲み込める話じゃない」
「それは当然です」
頷く遼を見て弾みをつけるようにして椅子から立ち上がり、診察室の奥へ行きガチャガチャと何かを取り出しながら少し声のボリュームを上げる。
「電話で聞いてりゃ鼻で笑ってただろうな。……けど、この耳も尻尾も紛れもなく本物だ」
戻ってきた乾はヒスイが寝ているベッド横に置かれたキャスター付きの台に金属のトレイを置いた。その中には採血管が二本入っており、カチャリと硬質な音を立てる。
「まずは検査だ。異世界人に現代医学が通じるかは知らんが、何か分かるかもしれん。寝てるところに刺してびっくりすると危ないから一旦起こしてくれ」
「分かりました。……ヒスイさん、検査のために血を採りますから起きてください」
遼が肩を揺するとゆっくりと目が開くが、目の焦点が合っておらずぼんやりとしている。
「じゃァちょっとチクッとするよ。……自分で刺すのは数年ぶりだから痛くても勘弁してくれ」
二の腕を縛って血管の位置を確かめ、アルコール綿で消毒すると針を当てがう。
「っ……!」
針先が白い肌を貫くと小さく呻いて耳の毛を逆立てる。
二本分の採血を終えると緊張に固まっていた耳が緩み、すぐにまた寝息を立て始めた。
「お前が他の女のことを相談してきたって芹澤が愚痴ってたけど、ヒスイさんのことだったんだな」
検体を遠心分離機にかけている間に、遼が買って来ていた牛丼を食べながら乾が言う。
「ま、芹澤の奴はなんか嬉しそうだったがな」
チラリと遼の反応を伺うように見る。
「芹澤さんにもあなたにも助けられました。……私は友人に恵まれている」
遼は少し追い詰められたような顔をしている。乾にとってそれは、初めて見る表情だった。
「……お前昔から平気でそういうこと言うよな。まァ、まだ助けられると決まったわけじゃない。それに報酬も貰ってるしな」
乾が割り箸の頭で鼻先を掻き、牛丼を掲げて見せる。
「ちと安いがな」
「……好物でしたよね?」
遼が眼鏡を押さえて言う。
「いつの話だよ。まあ好きだけどよ」
残りの牛丼を口に放り込んでプラスチックの容器をデスクに置いて大きく息を吐く。
「ご馳走さん。……じゃあ聞かせてくれ。彼女の容態が悪くなった時の状況を」
乾は椅子に座り直し、正面から遼を見る。
遼は昨日の出来事を思い出しつつ、静かに口を開いた。




