第九話 裏 第三の翼
「――女神を……殺す?」
暫しの沈黙のあと、絞り出した言葉は掠れていた。
ミラと名乗る理解し難い存在からの、これまた理解し難い依頼に思考が追いつかない。
なぜ女神を殺すのか。なぜそれを自分なんかに頼むのか。そもそもそんなことが可能なのか。
次々と湧いた疑問はいずれも言葉にならず消えていく。
しかし、これだけははっきりさせなければならないと意を決する。
「……お前は、何者だ?」
景真の問いにミラは宙返りをしてから怒って見せる。
「もう、”お前”じゃなくってミラだってば。うーん、そうだね。一言で言うならボクは”第三の翼”のその断片、かな。いや、そのまた欠片かも」
それは肝心なところを暈しているような要領を得ない回答だった。
だが景真には翼と聞いて一つだけ思い当たるモチーフがあった。そしてそれは、コハクも同様だった。
「女神の……奇跡の、翼」
コハクが地面に座り込んだまま呟く。
かつて神の国を離れ、ネビュラにやって来たという女神が持つ五枚の翼。
その翼にそれぞれ真理、正義、奇跡、運命、探究を宿すと創世神話には綴られていた。
「そう。その一部をA.N.I.M.A.に転写して、景真、君の中に隠れてたってわけさ」
寒気がした。
こんな得体の知れない存在が自分の体の中に潜んでいたなんて。
だが、それがいつ行われたかについては心当たりがあった。
「教団施設の地下にあった装置……か」
ミラはこくこくと頷く。
「そうそう。理解が早くて助かるよ。あれは女神の”狂信者”どもが作った物だけど、その中に潜んで君が来るのを待っていたのさ」
「俺を待っていた? なぜ……俺なんだ?」
なんの力も持たない自分が選ばれる必然性が感じられない。
「そう決まっていたから。悪いけどそれ以上は言えない。”権限”が無いんだ。ごめんね?」
ミラは小さな舌を出して謝るが、その言葉も仕草もそう演じているだけにしか思えなかった。
「……なんで女神様を殺すの?」
コハクの瞳が揺れる。
この世界に生まれ育った者からすれば、到底受け入れられる話ではないだろう。
ミラはうーんと腕を組み、悩む素振りを見せる。
「今はまだ言えない。権限がないからね。でも君たちに理解しておいて欲しかったんだ。『ORPHENAは倒すべき敵だ』って事をさ」
そう言って、景真の頭の上を旋回し光の軌道を描く。
「ま、今夜の一件で奴らが危険だってのは分かったと思うけど。あいつらは女神の手駒の実働部隊だ」
不意にミラはピタリと空中に静止し、何もない空間を睨む。
「……じゃあそろそろお暇するよ。長居すると女神に検知されるからね」
ミラは再び光の玉に包まれると、景真の左手に飛び込んだ。
裏路地を満たしていた無音が消え去り、堰き止められていた水が流れ出すように虫の声や風の音が一際大きく感じられる。
未だ現実感が戻らないまま、ぼんやりと周囲を見渡すと黒づくめの男二人がピクリとも動かず倒れているのが目に入る。
息があるのかは分からないが、それを確認する気にもなれない。
それでも、先ほどまでの出来事は現実だったのだと実感し体温が上がるのを感じる。
「行こう、コハク。立てるか?」
立ち上がり、座り込んだままぼーっとしているコハクに手を差し伸べる。
景真の呼びかけで瞳に光が戻り、小さく頷いてその手を掴む。
恐怖から解放された安堵か、はたまた信仰が揺らいだ深憂からか、握ったコハクの手は冷たく、小さな震えは尾の先まで伝わる。
景真は、その小さな手を壊してしまわないようにそっと引き上げた。
やっとの思いで宿に辿り着くと、ナーシャはまだ入り口のカウンターに座っていた。
景真が扉を開くと、それに気づいて立ち上がる。
「ああ、無事だったのね。遅いから心配したのよ、あんな話をした後だったから。……二人とも泥だらけじゃない」
時間が遅いのを気にしてか声を押さえているが、その中に安堵と心配が入り混じっている。
「すみません、酔っ払って転んでしまって」
これ以上心配を掛けまいと、予め用意しておいた嘘をつく。
「そうだったの……洗濯するから、着替えたら籠に入れて持って来てね」
嘘をついた罪悪感と、心配させてしまった申し訳なさがない混ぜになり居た堪れない気持ちになる。
「ナーシャ、ごめんね。私たちは平気だからもう寝てて。大事な体なんだから」
コハクも心底申し訳なさそうに耳を垂れている。
「いいのよ、私が勝手に待ってたんだから。それに、これで安心してよく眠れそう」
そう言って微笑むナーシャをコハクが寝室まで送り届けた。
足音を殺して部屋に戻った二人は、泥だらけになった服を着替えると糸が切れたようにベッドに倒れ込んだ。
この夜は、余りにも多くの事があり過ぎた。
今となっては、昨日までの数日は異世界にやって来たにしては異常に平和だったのだとすら思えてくる。
今後また同じような事があれば、次はコハクの身はおろか自分の身すら守れるとは思えなかった。
黒づくめの男たちはなぜ景真がワタリビトだと知っていたのか。そして、なぜワタリビトを探しているのか。
もちろん、その都度ミラが助けてくれるとも考るべきではない。あれはきっと、そんな都合のいい存在ではないだろう。
そもそもその言葉がどこまで真実なのかも分からない。
ミラの言葉には嘘をついているとかいないとか、人間の言葉には必ずある”感情の揺らぎ”が決定的に欠如していた。
ぐぅー、と間の抜けた音が静かな部屋に響く。
向かいのベッドで仰向けになっていたコハクが噴き出し、クスクス笑う。
「……全部出ちゃったから、腹減ったな」
体を起こして腹をさすると、さっき殴打されたところが痛んだ。
その痛みが何もできなかった情けなさと悔しさを呼び起こし、奥歯に力が入る。
コハクが横になったままこちらを向く。
その顔は先ほどまで張り詰めていたものが解けたように穏やかだった。
「干し肉でも食べる?」
コハクの柔らかい声に、入っていた力が抜けるのを感じる。
「このままじゃ眠れそうにないな……あ、いい物があった」
バックパックを漁り個包装された羊羹を二つ取り出し、一つをコハクに手渡す。
「……これは?」
コハクは初めて触るだろう、プラスチックの感触に困惑するようにパッケージを凝視している。
「オービスの……というか俺の国のお菓子だ。ほら、こうやって開けて」
パッケージの切れ込みを摘み、開けて見せるとコハクも辿々しい手つきでそれを真似する。
「黒くて、プニプニしてる……豆の匂い?」
姿を現した羊羹を訝しげに眺め、指でつついたり匂いを嗅いだりしている。
「うん、なかなかイケるな」
景真が羊羹を齧る姿を見て、意を決したようにコハクも口をつける。
「うわっ……甘い」
感じたことのない強烈な甘みに尻尾が膨らむ。
だが躊躇っていたのは最初だけで、すぐに二口目、三口目と食べ進めていく。
オイルランプの炎がゆらめき、羊羹を齧る二人の影を壁に映す。
甘味の効いた羊羹が胃に落ちると、不安は少し身を潜めた。
――それでも、完全に消えることはない。
この羊羹を掴む手の薄皮一枚の下で底知れぬ”神話”の影が蠢いていることを、知ってしまったのだから。




