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第八話 裏 顕現する奇跡 中


 ――寒い。

 寝袋越しに背中へ這い上がる冷たさで目を覚ます。

 上半身を起こして伸びをし、冷たい空気を吸い込んでから辺りを見渡す。

 日はまだ登ってはいないが、東の山の向こう側からその登場を予告するように光が漏れている。


 焚き木は燃え尽き、灰だけが残っていた。

 景真はコハクを起こさないよう静かに立ち上がり、川へ向かう。

 流れる水に手を差し入れると指先を痛い程の冷たさが襲い、漏れかけた声を咄嗟に飲み込む。

 そのまま掬い上げ顔を洗うと、残っていた眠気も澄んだ水に溶けていった。


 音を鳴らさないよう、慎重に砂利を踏み締めて竈門の前に向かう。コハクはこちらに背を向けて静かに寝息を立てている。

 余っていた焚き木を積んで左手を(かざ)し、目を閉じる。

 すると、今は影も形もないが、以前左手のひらに浮かんだ紋様をなぞるように皮膚の下で何かが蠢く。

 自分の体の一部ではない”何か”が、確かにそこにある。

 しかし、やはりその感覚はあと少しで掴める――というところでするりと逃げてしまった。


 今の感覚を覚えている内にもう一度、と再び左手を翳したが、

「ケーマ? ……もう起きてたんだ」

 背後からの声に振り向くと、起き上がったコハクが眠たそうに目を擦っている。右耳が折れているのは寝癖と呼んでもいいのだろうか。

「おはよう。起こしちゃったか?」

「ううん」

 コハクは首を横に振ると、東の空を指差す。

「日が登ったから」

 指の先に目をやるとその輝きに目が眩む。


 静かな夜が明け、静かな朝がやって来る。

 

 あれが景真の知る太陽ではなかったとして、このネビュラの大地に光と生命を(もたら)している事に変わりはない。

 二人は黙って目を細め、新しい一日の誕生を祝うように恒星が完全に姿を現すのを見守っていた。


 昨夜のスープの残りにパンを入れて煮込んだ粥を食べ、荷物をまとめて再び公都への道を行く。

 森を抜けるとその先の平原には、街道と言って差し支えない立派な道路が敷かれていた。その道の左右は腰の高さほどの黄色い草に覆われている。

「この先に村があるから、今夜はそこに泊まろう。多分、日が暮れる前に着けると思う」

 横を歩くコハクが景真の顔を見上げながら言う。

 やはりコハクはこの道を通って幾度も公都とゴンド温泉郷を行き来しているようだ。

「屋内で休めるのは助かる……けど、お金は大丈夫なのか?」

 ずっと気になってはいたが聞き辛かった事を尋ねる。現状コハクの懐に寄りかかっている景真にとってそれは常に引け目となっている事柄だった。

「心配ない。ちゃんと稼いで、貯めたお金がある」

 コハクはそう言って鼻を鳴らす。

「占い……だっけ? 結構儲かるもんなのか」

「ゴンドには大陸中からお金持ちが湯治に来る。その中には狐族の未来視目当ての人が結構いるの」

「なるほどなぁ」

 そのしたたかさに、改めて目の前の少女が見た目より長い時を生きてきたのだと実感し嘆息する。


 まっすぐに伸びる道をひたすら歩き、小一時間ほどが経った。

 右手に広がる草原の先で、牛に似た動物が群れをなしてのんびりと草を食んでいる。

 日が高くなるにつれ気温も上がり、その長閑(のどか)な光景にあくびが出る。

 ふと視線の先に、道の端に大きな荷物を置き座り込んでいる人影があるのに気がついた。

 距離が縮まると、その人影もこちらに気づいたようで座ったまま大きく手を振ってきた。

 柔和な笑顔を浮かべた小柄な男で、頭にはコハクほど大きくはない獣の耳が生えている。

「そこのお二人! いやぁ助かった! これぞ女神のお導き」

 景真たちが目の前で立ち止まると、甲高い声でそう言って左手で祈りの形を作る。

「どうかしたのか?」

 面倒ごとに巻き込まれたくはなかったが、無視するわけにもいかず景真が声をかける。

「いやァ、(ワタクシ)しがない行商人をしているキケロという者なんですが道中で足を痛めちまいまして、ここに来てついに立てなくなっちまったんです。本当はゴンドの鎮魂祭(ちんこんさい)で売り出すつもりだった商品が”おじゃん”になっちまいました」

 捲し立てるように、聞いてもない事をペラペラと喋る男に景真とコハクは目を見合わせる。

 

 初対面において最も警戒すべき相手は商人だ。

 商人という生き物は基本的に”信用”を武器に戦うが、行きずりの相手ならその理は通じない。

 隙を見せれば骨までしゃぶられるから決して信用するな、と旅に出る前、二人揃ってニャーラに釘を刺されていた。


「あっ! いやいや、こいつを売りつけようとかそんなつもりはありゃしませんよ。怪我に効く薬でもお持ちでしたら譲っていただけないかと思いましてね。もちろん、お代は払います」

 キケロは大袈裟な手振りで弁明する。

 そういう事ならペテンにかけられる心配は無いだろうか。

 再び隣に立つコハクと目を見合わせると、彼女は小さく頷きキケロの足元にしゃがみ込んだ。

「痛いのは左足?」

「そうですそうです! なんで分かったんで?」

 コハクはそれには答えず、キケロの左足に手を翳して目を閉じた。

 昨晩見た時より周りが明るいからか微かにしか見えなかったが、光の粒が結合しながら男の足に集まっていく。

 やがて音もなく光が消え、コハクは額に浮かんだ汗を拭い手を下ろした。

「……どう?」

「……痛みが引いてる! へェ、こんな見事な治癒術、聖都でもなかなかお目に掛かれませんぜ。お嬢さん……いや、狐族ならお姉さんか。いや大したもんだ!」

 立ち上がり、ピョンピョン跳ねながらひとしきり騒ぐと荷物の中から銀貨を一枚取り出しコハクに差し出す。

「これは約束のお礼です」

「!……こんなに貰えない」

 キケロは固辞するコハクに押し付けるように銀貨を手渡してから荷物を背負う。

「助けて貰わなきゃここで野垂れ死んでたかもしれねェんですから安いもんです。この商品も、祭りの時ほどの値は付かなくても無駄にしないで済みました」

 そう言って、背中の鞄をぽんぽん叩く。

「ところでお兄さん」

 キケロがこちらを見る。

 その視線は景真の胸の奥まで見透かすような鋭さで突き刺さる。

「ひょっとして、”ワタリビト”ですかい?」

 その言葉と目線に思わず身構えた。

 キケロはすぐに笑顔を浮かべておどけるように言う。

「あ、そんな警戒せんで下さい。商人ってのは人を見る商売なんで、この手の”違い”には鼻が効くんでさァ。……それじゃあ、ここらで失礼します。商売の基本は”善は急げ”ですからね」

 二人は、景真たちが来た方向へと軽い足取りで去っていくキケロの背中を見送った。


「……何事もなかったな」

「うん。まだ日が沈むまでに村に着けるから急ごう」

 二人は歩みを早め、村を目指す。

 頭上まで登った日が空気を温め、草いきれが辺りを満たしている。

「そう言えば、アニマって怪我の治療なんてこともできるんだな」

「私だとちょっとした怪我くらいしか治せないけど、上位の治癒師は切断した腕をくっつけたりできるらしいよ」

 コハクは謙遜するでもなく言う。

「凄いな、アニマ。……ずっと気になってたんだけど、初めて出会った時に俺の肩の傷を治してくれたのってコハクだったのか?」

 前を向いたままこくりと頷く。

「そうか。ありがとうな」

 コハクは言葉は返さず焦げ茶色の尻尾が三度、大きく揺れる。


 吹き抜ける風が、道を挟むように広がる黄金の海原を波立たせた。

 

 

 

 

 

 

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