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第八話 裏 顕現する奇跡 前


 コハクが告げた母の名は、森を渡る風に溶けた。

「ヒスイ――か。二人とも宝石の名前なんだな」

 その名を忘れないよう、噛み締めるように言葉にする。

 それは二つの世界を繋ぐ細い鎖のように思えた。

「そう、ワタリビトが残した言葉。……私の名前はジュストが付けてくれたの」

「そうだったのか」

 思わず笑ってしまう。

 神隠しにあった遥か遠い先祖が、今目の前にいる少女の名付け親だという。

 その因果を思うと、自分が今ここに立っていることも単なる偶然とは思えなくなってくる。


 夕陽に照らされた森が茜色に燃えている。

「この先に川があるから、そこで野営しよう」

 サクラダケの山を抜け、広葉樹の森を数時間進んだところでコハクが足を止めて振り返った。

「ありがたい、もう脚が棒みたいだ」

 その場にへたり込みそうになるのを堪えてコハクの背を追うと、目の前に川原(かわら)が広がった。

 膝ほどの深さに澄んだ水がさらさらと流れ、それに逆らうように泳ぐ魚の姿も見える。

 キャンプ場ですらない完全な野宿に不安はあったが、その反面ワクワクもしていた。

「じゃあ焚き木を集めてくるよ」

 川原に荷物を置き、景真は再び森に入る。


 静かな森の中に、傾いた太陽が木々と景真の影を長く伸ばしている。

 ――いや、あれを太陽と呼んでいいのだろうか。

 ここが異世界ならば空に燃えるあれもまた、太陽とは別の恒星ということになるだろう。

 ネビュラは地球と同じ時を刻む――自転も、公転も。ならばここは、遠い未来の地球なのではないか。その仮説だけが、どうしても頭から離れなかった。

 答えの出ない思考を巡らせながら、なるべく乾いた枝を選んで集めていく。


 両手に抱える程度の焚き木を集めて川原に戻ると、コハクが石を積んだ簡素な竈門を組んでいた。

 日は山の向こうに姿を隠し、そこから漏れ出る光が別れを惜しむように大地を照らしている。

 コハクの傍らに焚き木を置き、竈門の横に置かれた毛皮の寝袋の上に胡座(あぐら)をかく。

 コハクは竈門の中に枝を積むと、両手をかざして目を閉じた。

 何か宗教的な儀式なのだろうか。

 ぼんやりと考えながらその様子を眺めていると、間もなく焚き木の周囲に光の粒が浮かび始めた。

 それは蛍のように薄暮の中に浮かび上がり、竈門の中に集まっていく。

 すると焚き木から燻るように煙が上がり、ついには真っ赤な炎が起こる。

「なんだそれ、魔法か!?」

 この世界に来て初めて、目に見える形を成した超常的な力に思わず声が出た。

「……マホウ? 火起こしのこと?」

 興奮した様子の景真に、コハクのはきょとんとしている。

「そっか、見せたことなかったね。……アニマに呼びかけて火を起こしたり色んなことができるんだけど、私は未来視以外はあんまり上手じゃないから」

 謙遜するでもなく、当たり前のことのように言う。

「それって誰でもできるものなのか?」

「体の中にアニマがあれば。でも、できることや強さは人によって違う」

「アニマがあれば……か」

 やはりワタリビトには使えないのだろう。景真は肩を落とす。

「でも……前にも言ったけど景真からはなぜかアニマを感じる。だから、ひょっとしたら使えるかもしれない」

 過度に期待させないように言葉を選びつつ励ましてくれているようだ。

「うーん、ちなみにどうやるんだ?」

 コハクは少し考え込む。

 感覚的なものをどう言語化するか悩んでいるのか、尻尾がうねうねと妙な動きをしている。

「……体の中のアニマに『こうして』って念じて、外のアニマにそれを伝えてもらう……感じ?」

「わかるような、わからんような……」

 二人は揃って首を捻る。


 竈門の前でテキパキと夕食の支度を進めるコハクを尻目に、景真は枝を手に念じる。

 ……念じるのだが、何も起こらない。

 

 使えるものならどんな力でも手に入れておきたいと思った。

 このままでは幼子のようにコハクに守られているだけだ。

 

「体内のアニマってのを感じられないとダメかもな」

 独りごち、じっと左手を見る。

 一瞬、何かがぞわりと血管を流れるような感覚がしたが、何かを掴むことなく霧散してしまった。

 その痕跡を追うように、指先が微かに震えている。

 

 しばらくその感覚を追いかけていた景真だったが、コハクの「ご飯できたよ」の声で断念し、手に持った枝を竈門に放り込む。


 出来上がった夕食は三種ほどの野菜と干し肉を煮たスープと、保存が効くようガチガチに水分を抜かれたパンだった。

 夜になり冷え込んできたところに、旨そうな匂いが乗った湯気が鼻腔をくすぐる。

「いただきます」

 木の匙ですくい、口へ運ぶ。

 柔らかく煮込まれた野菜の甘みが、ほのかな塩味とともに口に広がっていく。

 オービスの料理に比べるとシンプルな味付けだが、柔らかく広がる滋味が今はとても好ましく思えた。

 続けて、硬いパンをちぎってスープに浸す。

 パンはスポンジの如くスープを吸い、それを口に運ぶと中から溢れ出たスープがパンの旨みとともに(ほど)けていく。

「美味いよコハク。あの石みたいなパンもこんなに美味しく食べられるんだな」

「そう? よかった」

 世辞でもなんでもなく、心から称賛を送るとコハクは少し照れくさそうに笑っている。

 素朴ながら優しく体に染み入るその味は、彼女の人柄そのもののようだった。


 食後の後片付けを買って出た景真が川の水の冷たさに悲鳴を上げ、それを見たコハクがくすくす笑う。

 

 冷えた手を焚き火で暖めてからそれぞれの寝袋に(くる)まり、空を見上げた。

 

 ダイヤの詰まったバケツをひっくり返したかのように星が瞬いている。

 東京では決して見られなかった満天の星空だ。

「こんなの、プラネタリウムでしか見た事ないな……」

 焚き木がパチッと音を立てて爆ぜる。

 

 ふと、ある事に気づく。


 ネビュラで夜を迎えるたび、ずっとあった違和感の、その正体。


 ――ネビュラの空には、月が無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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