第八話 表 遠雷と虹 前
山の向こうに灰色の雲がとぐろを巻き、時折遠く雷鳴が響く。
雨は夕方からの予報だったが、それよりも早く降り出しそうな気配だった。
すでに空気は重く湿気を孕みつつあり、汗が放熱の機能を果たし切れないまま肌を伝う。
遼とヒスイは都内のキャンプ場を訪れている。
景真との通話からその発信元となった基地局の位置を同僚の協力で特定し、その周辺に空穴の痕跡がないか調べに来たのだ。
周囲数キロをカバーする基地局の通信範囲からその痕跡を見つけ出せる可能性は低いとも思えたが、教団との接触を避けつつ探れる数少ない手掛かりでもある。
あの時、カフェにいた遼達を黒衣の男と御堂コトネは確かに捕捉していた。
その上で、あの場で追ってくることはなかったが、それは逆に「いつでも捕えられる」と言われているように思え、不気味だった。
この世界において、最もネビュラに近いのは星雲救世会だ。
昨日の出来事はむしろその確信を深めたが、それでも今教団に近づくのは危険だと判断し、別の手掛かりを当たることにしたのだった。
夏休みの最中とは言え、平日なのに加えて悪天候の予報もありキャンプ場に人は疎らだった。
「あの先っぽが見えてる塔が目的地です」
距離はあるが、深い山林の中にあって存在感を放つ鉄塔を指す。
「結構遠いですね……頑張ります」
ヒスイは大きな麦わら帽子をかぶり直して気合いを入れるように深呼吸する。
今朝は自分で耳と髪飾りをセットしていたが、やはり思うようにいかず半べそをかき、最終的に遼が茉由に電話で聞きつつなんとか仕上げた。
服はいつも通りゆったりしたシルエットのワンピースだが、その上下に遼の高校時代のジャージを着るというトンチキな格好になっている。
「……これ、やっぱり変じゃないですか?」
ヒスイが帽子の陰から、上目遣いで言いづらそうに聞いてくる。
「変ですよ」
無慈悲に即答されショックを受けるヒスイをよそにバックパックを背負い直す。
「でも嫌でしょう? マダニとかヒルとか」
「う……そりゃ嫌ですけど……」
「山の中に人はいないですから。ジャージにも尻尾の穴開けちゃったんですから後戻りはできませんよ」
観念したのかワンピースの中で尻尾が萎れるように垂れて、被せられたビニール袋がガサリと音を立てる。
「行きますよ。雨が降り出す前に戻りましょう」
今行かなければ、何か痕跡が残っていたとしても雨に流されてしまうだろう。
山道に入ると纏わりつく湿気は更に増し、息苦しさすら覚える。
このペースだと鉄塔まで小一時間といったところだろうか。
暑苦しい蝉の声にうんざりしつつ額を拭う。
ヒスイはなんとか遼の後ろをついて来るがすでに肩で息をしている。
「休憩しましょう」
そう言って手頃な岩を指差すが、ヒスイは横に首を振る。
「わたしは平気です……先を急ぎましょう」
その顔は明らかに紅潮し、熱に浮かされたように目も虚ろになっている。
「ダメです。座ってください」
半ば強制的に岩に座らせて、ぬるくなったスポーツドリンクを差し出す。
ヒスイはそれを受け取るとおずおずと口をつける。
「辛かったら言ってください。無理して倒れては元も子もない」
努めて語気が強くならないように言う。
「でも、わたしが無理言ってついて来たのに……」
ヒスイが申し訳なさそうに肩を落とす。
ここへは遼一人で来るつもりだった。
服装の問題もあるし、体力に優れるとは思えないヒスイを山中に連れ出すことに大きな懸念があった。何より、万一どこかで教団に出くわした場合、一人の方が逃走しやすいと考えたからだ。
しかし、ヒスイは遼に頼み込んでついて来たのだった。
一人でいるのが不安だったのか、あるいは何か不吉な未来を”視た”のか、その瞳には必死な色が宿っていた。
「……もう大丈夫です。行きましょう」
立ち上がったヒスイから、半分ほどの重さになったペットボトルを受け取りバックパックにしまう。
顔色はいくらか落ち着いたようだ。
「……失礼します」
そう断ってから額に手を当てると、ヒスイはくすぐったそうに目を閉じた。
滑らかな額はわずかに汗ばみ、髪の毛が貼り付いている。
特段熱さは感じないが、狐族の平熱がどんなものかはわからない。
――その時、電気のような、あるいは水のような、または熱のような”気配”が額と手のひらの狭間で交差した。
未知の感覚に反射的に手を引く。
離した手のひらを見るが何も異常はない。
何かの錯覚にしては、その余韻が生々しく手のひらに残っている。
「――やはり、あなたは……」
ヒスイの声が静かに響き、ゆっくりと目を開く。
間近で見るその瞳は正しく翠緑の宝石を思わせ、そこに宿る光は”神託”を下す時のそれに似ていた。
「それはどういう……?」
ヒスイが口にすることなく飲み込んだ言葉を問うが、彼女はそれに答えずかぶりを振る。
「……いえ、なんでもありません。参りましょう。雨が近づいています」
雷雲は更に近づき、風が強まっている。低く響く雷鳴も徐々に近く、大きくなっていく。
風に煽られた樹々の葉擦れと胸のざわめきが同調するように鳴り、息が詰まる。
嵐が近づいている。
遼はその足を僅かに速めた。




