第七話 裏 偽りの希望
止まっていた風が流れ、ざわざわとした葉擦れも戻ってくる。
黒々と宙に浮いていた空間の断裂は跡形もなく消え去った。
その下には薄桃色の落ち葉がミステリーサークルのような紋様を描いており、その静けさと相まって魔術的な儀式の後を思わせる。
空は台風が過ぎ去った後のように青く澄み渡り、樹上を鳥の編隊が横切っていく。
景真はスマートフォンを耳に当てたまま動けずにいる。
空穴が閉じるのと同時に通話は切れてしまった。
スマートフォンを握る手を下ろし液晶に目をやると、アンテナピクトは当然のようにここが圏外である事を示している。
「……ケーマ、今誰に話しかけてたの?」
コハクが訝しげに、動かない景真の顔を覗き込む。
「――あ、ああ、これは離れた相手と話ができる道具なんだけど、どうやら空穴の近くだとオービスと繋がるみたいなんだ」
伝わるようなるべく噛み砕いて説明すると、コハクは尻尾を揺らして興味深そうにスマートフォンを眺めている。
「それで、俺が探してる人の弟に連絡したんだけど……」
景真は言い淀む。
ノイズ混じりの会話の中、遼は確かにネビュラの名を先に口にした。遼が向かった苔守村でネビュラの人間と合流したのだとも。
つまり、オービスからネビュラに飛ばされることがあれば、その逆もまた然りということなのだろう。
そして景真の脳裏をある可能性がよぎった。
コハクが探している母親もまた、空穴に飲み込まれオービスに転移したのではないか、と。
この話をコハクがどう受け取るかはわからない。
それでも彼女に情報を隠すことはしたくなかった。
「……その男が、向こうでネビュラ人と会ったようだ」
コハクがはっと息を呑む。
「オービスに……ネビュラの人が?」
「ああ、確かにそう言っていた。……ネビュラからオービスに飛ばされることはあるのか?」
「ある……と思う。実際に人が空穴に飲まれるところを見たって人もいるし、行方不明者もいる。けど、その人がどこに行ったのかはわからない。」
ネビュラにおいてオービス人がワタリビトとして受け入れられているように、オービスに異世界人がいるという話は聞いたことがない。
だが、オカルト話や都市伝説といった与太話として扱われたり、その存在を隠匿されている可能性は否定できない。
「――やっぱり、お母さんも……」
コハクの声が揺れ、喉が小さくきゅっと鳴る。
追い求めていた母親の存在は、もうこの世界に無いのかもしれない。
きっと彼女はその可能性をずっと考えていたのだろう。
「……俺がここにいる」
言葉が口をついて出る。
「お袋さんがオービスに飛ばされたなら、俺と同様にネビュラに飛ぶこともできる。一ノ瀬遼……さっき話してた男に探してもらおう。デキるやつだから、きっとネビュラに帰る手段も見つけてくれるはずだ」
オービスで生きているのなら、それは必ずしも永遠の別れを意味しない。その事は景真の存在が証明している。
この”希望”はまやかしだ。
これを救いとして提示することに、酷く胸の奥が痛む。
オービスに飛ばされていたとして今も生きている保証など無いし、景真と同じ方法を辿ったとして帰ってこられる確証も無い。
それでも、今のコハクにはそれが必要だと思った。
「四百年もコハクのことをほっぽってネビュラで生きてるってよりよっぽど可能性がある話だろ? ……そうなると遼とまた連絡取らないとな」
涙が溢れるのをなんとか堪えるコハクに、景真は必死に明るい声を作る。
彼女をまやかすと決めたのなら、最後まで演じ切るしかない。
コハクはずっと涙も、痛みも、弱さも隠している。
景真に対してだけでなく、きっとニャーラにすら見せてないのだろう。
――今は、それでもいい。
いつか見せてもいいと思ったら、そっと見せてくれればそれで。
ただ今は、彼女が前に進めるように希望を示したかった。
「だから、空穴が現れる兆しがあったら教えてくれ」
コハクが赤くなった鼻をすすって頷く。
その琥珀色の瞳には、強い光が戻っていた。
その瞳に戻った光は、強がりとも本当の希望ともつかない——けれど、今はそれで十分だった。
しかし心のどこかで、この少女に与えた希望のその責任を取れるのかと問い詰める自分がいた。
どうせ取れやしないだろうと、嘲笑う自分も。
「ちなみに、あれくらいの大きさの空穴だと人は飲まれないのか?」
二人は再び山道を進んでいく。
気づけば太陽は真上にあり、気温も上がってきて体はじっとりと汗ばんでいる。
「あの大きさじゃ飲まれないと思う。興味本位で手を入れた人が腕だけ持って行かれたって話は聞いたことあるけど」
その惨状を想像してしまい、思わず身震いする。
「……無闇に近づかないようにするよ。頻繁に出くわすものなのか?」
「ん……さっきのくらいのだと、毎日どこかに出てると思うけどあんな近くに現れるのは稀かな」
やはり通話するチャンスは限られていそうだ。
そして、さらに限られた時間の中でコハクの母親の事を伝えなければならない。となれば、咄嗟に言葉にできるよう、あらかじめその内容を考えておく必要があるだろう。
「お袋さんの名前は?」
四百年経った今でも同じ名前を使っているかはわからないが、伝えられれば大きな手掛かりにはなるはずだ。
長いまつ毛が伏せられ、大切なものをそっと包み込むようにその名を口にする。
「――ヒスイ。お母さんの、名前」
知るはずのないその名が、胸の奥に漣を立てた。




