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第六話 裏 旅立ちの朝 後



 日もだいぶ高くなり、朝焼けは蒼穹に塗りつぶされている。朝露が蒸発し、周囲には土と草の匂いが立ち込める。


 四人で家中の戸締りを確認し、コハクが出入り口に錠をかける。

 コハクは別れを惜しむようにじっと家を見つめ、独り言のように「いってきます」とだけ呟いた。

 その言葉は本当に届けたかった人に届くことなく、微かに空気を震わせた。


 ゴンド温泉郷の商業区はすでに朝の活気が溢れており、人混みの中を言葉も交わさず進んでいく。

 足元を子供たちが駆け抜け、その笑い声は雑踏と空へと吸い込まれて行った。


 町の出口に辿り着いたところで、先頭を行くコハクが後ろを振り返る。

「それじゃあ、行ってくるね」

 コハクの声は澄み渡った朝の空気のようで、控えめな音量ながら確かに届く。

 景真もその横に並び立つ。

 ニャーラはなんとか表情を保とうとしているが、その鼻は赤くなっていた。一歩踏み出しコハクの手を引き寄せ、そのまま頭を抱いた。

「さっさと帰ってこないと、あんたのお客みんな貰っちゃうんだから」

 ニャーラはコハクの艶やかな髪を撫でながら軽口を叩くが、その声色はどこまでも柔らかく、少しだけ震えていた。

「う……それは困る……」

 その素直な反応にくすりと笑うと、コハクを解放する。

 ニャーラは胸を張るように立ち、なるべく声を張る。

 それはどこか自分に言い聞かせているようだった。

「ま、半年とか一年なんて私たちにとっちゃあっという間なんだから」

「僕にとってはそうでもないですけどね」

「あんたはいいのよ!」

 横槍を入れたエクトルにニャーラが噛み付く様子を、コハクが眩しそうに眺めている。

「あいつら、仲良いな」

 景真は、そんな二人を羨ましく思う自分に気づく。

 自分もいつか、あんな風にコハクの横に立てるだろうか。

 ……いつかいなくなるつもりの自分に、その資格があるのか。

「うん」

 コハクは小さく頷いて微笑んだ。


「じゃあ、気をつけてね」

 先ほどの騒動は、静かな別れの寂寥感を吹き飛ばしてしまい、ニャーラの口調もいつもの調子を取り戻していた。

「ニャーラもエクトルも、元気で」

 コハクもいつもの淡々とした口調で答える。

 

「ケーマさん」

 エクトルが景真に近づき、何かを差し出す。

「餞別です。旅では何かと役に立つかと」

 それはシンプルな装飾の施された短刀だった。受け取るとずしりと手に馴染む。

 鞘を抜くと二十センチ程の刃が鈍い光を放っていた。

「ありがとう、大事にするよ」

 鞘に収めてからそう答えると、エクトルは笑顔で頷く。


 去る者と見送る者で互いに手を振り合い、別れの手前でニャーラが景真に駆け寄る。

「あの子を……コハクを、お願いします」

 頭を下げるその姿は、いつもより更に小さく見える。

 景真は彼女のコハクを想う気持ちにどう応えるべきか少し悩み、答えを出す。

「ああ、任せろ!」

 できる限り力強く言う。

 ニャーラの不安を吹き飛ばせるように。

 顔を上げたニャーラは笑い、後方で待つエクトルの元へ走って行く。

 

 ニャーラのお陰で吹っ切れた気がした。

 できる、できないではない。

 できる自信も、ない。

 それでも――やらなければならない。

 だが同時に、景真にも叶えねばならない望みがある。

 それは、今この世界に立っている理由そのものでもある。


 自らの器量を超えた望みを抱えてしまったという不安に蓋をするように、景真は前を見た。

 


 「公都ってどんな所なんだ?」

 ニャーラたちと別れてから続いていた沈黙を破り、予め聞いていた目的地について尋ねると隣を歩くコハクは少し考えてから答える。

「この国で一番大きな街で、エルフ族が多い。人も物も、情報も集まる」

「やっぱり情報収集するなら人が集まる所か。そう言えば、俺と会ったのも公都からの帰りだったんだよな」

 実年齢はさておき、コハクのような少女が一人で旅をして危険はなかったのだろうか。

「うん。その時はお母さんの情報は見つからなかったけど、ケーマの探し人……ハルカの情報なら見つかるかもしれない」

「そうだな。お袋さんの情報もな」

 そう言うと、コハクは少し寂しそうに笑う。

 景真はそこに、微かな諦観を見た気がした。


 人々に踏み固められた道を進むと、薄桃色に覆われた小高い山が見えてくる。ゴンドに向かう時はあの山を下って来たのだろうか。

 遠目には狂い咲く桜のように見えるそれが、実は葉であることを景真はもう知っている。

 

 山に入ると周囲はありふれた竹林と変わらないのに、見上げると儚げな桜色が生い茂る光景は、見るのが二度目でも脳が混乱する。

 しげしげとその不思議な植物を眺めていると、コハクが口を開く。

「ワタリビトは”サクラダケ”って呼んでた」

「サクラダケか、そのまんまだな」

 景真からすればそれは極めて安直なネーミングに思えたが、ネビュラの住人からすれば不思議な響きなのだろう。


 小一時間ほど進んだところでコハクが休憩を提案してきた。

 正直言うと、慣れない山道でかなり足腰に疲れを感じていたのでありがたく受け入れる。

 バックパックを置き、地面に積もったサクラダケの葉の上に腰を下ろす。

「この辺りは人を襲うような獣とかはいないのか?」

 特に警戒するでもなく進んでいくコハクを見るに、危険は無いのだろうと考えてはいた。

「この辺では聞いたことないかな。大陸の南にはバイルっていう毛むくじゃらで黒くて大きいのがいるみたい」

 景真をおどかそうとしたのか、無表情のままがおーと両手を上げるコハクの迫力の無さに思わず笑ってしまう。

 笑われたのが不本意だったのかコハクが少しむくれた顔をした――その時。


 風が止まり、頭上から響いていた鳥の声も消えた。

 耳が痛いほどの静寂が満ち、重力が増したように感じる。

「なんだ……?」

 晴れ渡っていたはずの空すらも、薄暗くなっている。

 

空穴(くうけつ)……!?」

 初めて聞く、コハクの切迫した声だった。

 空穴については、予めコハクから注意を受けていた。ネビュラとオービスを繋ぐとされる空間の裂け目だ。

 飲まれれば、もうここには戻っては来られない。

 コハクが素早く立ち上がり、周囲を警戒する。

 景真も立ち上がろうとすると、コハクが手で制す。

 

 そのコハクの視線の先、宙を割る真っ黒な裂け目がジワリと口を開き、止まる。

 手のひらほどのそれは光すら飲み込むように、完全なる暗黒を湛えている。


「……この大きさなら大丈夫」

 コハクが息を吐いてから言い、半歩下がった。

 

 その時、景真のスマートフォンが鳴いた。

 風すらも止まった静寂の中で、それは一際大きく響いた。

 景真を庇うように立っていたコハクの肩がビクッと揺れ、こちらを恐る恐る振り向く。

 スマートフォンは、堰き止められていたものが流れ込むように断続的に振動し、通知音を鳴らし続けている。

「まさか……」

 信じられない気持ちで、画面を確認する。


 ――アンテナピクトが、辛うじて通信回線への接続を示していた。


 空穴を通じて繋がっているというのであれば、今ならオービスと連絡が取れるかもしれない。

 だが、それなら誰に?

 ピクトは安定せず、立っては消えを繰り返している。

 迷っている時間は無い。


 即座に答えは出た。

 限られた時間で現状を伝えるなら、あの男しかいない。


 景真は、最後の履歴から通話を発信した。

 

 

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