第六話 裏 旅立ちの朝 中
食卓へ向かうと、そこには見知った顔が二つあった。
「ニャーラ、エクトル」
「……あらケーマさん、おはよー」
ニャーラの声は昨日聞いたそれよりも小さく、力が抜けていて、目も半分しか開いていない。朝が弱いのだろうか。
「ケーマさん、おはようございます」
エクトルは相変わらず人懐こい笑顔を浮かべている。
「おはよう二人とも。どうしたんだ、こんな朝早くに」
「……どうしたもこうしたもないわよ」
ニャーラはそう言うと、朝食の用意で動き回っているコハクの襟首を捕まえる。
「この子がまた黙って出て行くだろうから、先手を打って見送りに来てあげたのよ」
首が絞まり「ぐぇっ……」と小さく唸ったコハクを解放して鼻を鳴らす。
「朝ご飯、食べて行って。まだでしょ?」
コハクが服の襟元を直しながら言う。
「いいわよ。二人分でしょ? しっかり食べないと旅なんかできないわよ」
「二人が来るのが”視え”たから四人分作った」
そう言って厨房に並んだ料理を指す。
「そういうこと。ならいただくけど、なんか覗かれてるみたいで落ち着かないものね。ま、私もやるけどさ」
ニャーラは軽口を叩きつつ、食器を取りに厨房に向かう。
「未来視って狐族なら誰でもできるもんなのか?」
「狐族なら誰でも、という訳ではないようですよ。適性が高いのは確かですが。あのお二人はどちらも、占いで生計を立ててますね」
なるほど、コハクの仕事についてはまだ聞いてなかったが、言われてみればこれ以上ない適職に思える。
景真とエクトルは話しながら配膳を手伝い、四人で不揃いな食器が並ぶ食卓を囲んだ。
席に着くと誰からともなく左手を掲げ、影を重ねるように同じ形を作る。それは、祭りの夜にコハクがワタリビトの祠に祈る際にしていたものと同じ所作だった。
その様子に戸惑っている景真に最初に気づいたのはエクトルだった。
「あ、ケーマさんは創世教徒というわけでもないので、気にしないでください」
「そう言えば、ミチヨさんは食事の前には手を合わせてたわね」
ニャーラがそう言うと、コハクがこくりと頷く。
「ああ。俺の故郷じゃ”いただきます”って料理してくれた人や、これからいただく命に感謝するんだ」
「へぇ……素敵な考え方ですねぇ」
エクトルが感心したように呟く。その響きにはオービスの文化への崇敬が含まれているようだった。
「そういえば、そのお祈りって食事の前にもするもんなんだな」
思わず、頭に浮かんだ疑問をぶつけるとニャーラとエクトルの視線がコハクに向き、コハクは無言で目を逸らした。
その尻尾は何かを誤魔化すようにゆらゆらと揺れている。
「この子、普段サボってるわね」
ニャーラが呆れたように言う。
確かに、コハクが食事の前に祈りを捧げているところは見たことがなかった。余り信心深い方ではないのだろうか。
それでもあの祭りの夜、祈るコハクの静謐な横顔は今でも脳裏に焼き付いている。
「一人の時はいいけど、外でやらかして面倒ごとに巻き込まれても知らないわよ。ケーマさんにも教えてあげないと」
祈りを怠ると面倒ごとになりかねないというならば、この世界の宗教観は思っていたよりも敬虔なようだ。
「気をつける……」
コハクの耳がしょんぼりと垂れる。それを見て助け舟を出すことにした。
「この手の形には何か意味があるのか?」
三人がしていたように手の形を作る。
「お、いい質問ですねケーマさん」
食いついてきたのはエクトルだった。
「これは、女神オルフェナの五枚の翼を表しています。人差し指は女神がこのネビュラに辿り着くその旅の中で失った”二の翼”なんですよ」
エクトルは目を輝かせ、水を得た魚のように解説を始める。
睨んだ通り、昨晩読んだ神話がモチーフになっているようだ。
齧ったパンを飲み込んでから再度尋ねる。
「昨日ネビュラの神話を読んだんだが、あれって実際にあった事なのか?」
元より完全に史実であるとは思っていない。知りたいのはそれが「史実として伝わっているかどうか」だった。
先ほどまでと打って変わって、エクトルは少し迷ってから話し始める。
「……それはわかりません。一応史実である、という事になってはいますが、その全てが事実と証明するものはありません」
そこまで言うと、エクトルはテーブルを見つめている。
一拍置いて、迷いを振り切るように再び口を開く。
「――ただ一つ言えるのは、オルフェナもアニマも実在するということです」
頭を殴られたような衝撃が襲う。
エクトルは学者であって宗教家ではない。
その彼が神も、それが起こす奇跡も実在すると断言しているのだ。
ネビュラに来てからこっち、不可思議な事象や何かに導かれているような感覚には幾度も遭遇した。
そもそも景真がネビュラに飛ばされた事自体が、何か得体の知れない意思によるものなのではないかと考えたこともある。
この世界は、景真の知る地球と同じ空気、重力、時間を共有しながら全く異なる摂理によって動いているという実感があった。
だからこそ、この世界においては神が形而下の存在であるという可能性を景真は否定することができないでいた。
その後の料理の味や話の内容は一切頭に入って来ず、ただ胃から込み上げてくるものを水で流し込む事に徹する。
足元を蠢く”神話”が、背筋を這い上り始めた――そんな予感を飲み下した。




