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第四話 表 地に墜ちた星


 長いトンネルを抜けると、眼下に見慣れた夜景が広がる。

 

 昨日までは紛れもなく、自分もあの巨大な街の一部だったはずなのに、今は遠く、他人事のように映る。

 

 既に日付が変わってもなお煌々と輝く不夜の都は、苔守村では天に在った星々を地に引き摺り下ろしたかのようだった。

 後部座席で目を覚ましたヒスイが、窓に貼り付くようにして煌めく街並みを眺めている。

「あれが……東京、なのですね」

 少しの興奮と寂しさ、そして覚悟が声に滲む。

 村を出たことを後悔してはいないだろうか。

「……ところで、東京には美味しいものがたくさんあると燈から聞きました」

 急に変わった声のトーンにバックミラー越しに後ろを見ると、深緑の瞳を輝かせている。

「……私はあまり飲食店に詳しくありませんが、食べたいものがあればご馳走しますよ」

 あんな目をされては無碍にもできない。

 しかし、尻尾はともかくあの大きな耳をどうすれば自然に隠せるだろうか。店によってはやはり帽子を被ったまま、という訳にはいかないだろう。

「わぁ、楽しみですね」

 頭を悩ませる遼をよそに、顔の前で両手を合わせて無邪気に微笑むヒスイの姿に、先行きの不安を感じながらも帰路を急ぐ。

 

 とにかく今は眠りたかった。

 世界の見え方すら変わってしまうような非現実に触れ、精神的にも肉体的にも疲れ果てている。

 ここで体調を崩してしまっては、姉の捜索も教団の調査もあったものではない。


 なんとかマンションに辿り着き、エレベーターを使い自室へ向かう。

 ヒスイはずっと物珍しげに辺りをキョロキョロしているが、遼は気が気でない。

 この時間なら可能性は低いだろうが、隣人と鉢合わせなどしようものなら『警察官が自宅に女性を連れ込んでいる』と思われるのは避けられない。

 ……事実、連れ込んではいるのだが。


 静かにドアを開けると、ヒスイを先に玄関に入れる。

 照明を点け白い廊下が照らし出されると、見慣れた景色にやっと帰ってきたという実感が湧く。

 ヒスイはここでも部屋のあちこちを見ては、感嘆の声を上げている。

 車の中で寝ていたせいか、はたまた初めての外の世界でハイになっているのか分からないが、その様子は不自然なほど元気に見えた。


 ――しかし、勢いでここまで連れてきてしまったが、これで良かったのだろうか。

 

 ヒスイが故郷……異世界(ネビュラ)に戻りたいというのは本心だろう。そして彼女の、いや、”彼女たち”の願いを叶えたいという気持ちもある。

 そして、その方法を星雲救世会が知っている可能性はある。あるいは、彼女はその”未来視”の力で確信を得ているのかもしれない。

 だが、相手は警察すら手を出せない得体の知れぬ巨大組織だ。自分一人で一体どこまで対抗できるか分からない。

 村の様子を見るに、ヒスイは自由こそ制限されていたが、神として尊重され曲がりなりにも平穏に暮らしていたように思える。

 自分の行動はその平穏を破壊し、彼女の身を危険に晒す事になりはしないだろうか。


「ベッドは一つしかないのでヒスイさんが使ってください」

 とは言え今更やり直すこともできない以上、まずは生活の基礎を築かなくてはならない。

 来客すら滅多にない部屋だ。二人で暮らすには足りない物が多すぎる。

「遼さまはどうされるのですか?」

「今日はソファーで寝ます。明日布団や必要な物を買い出しに行きましょう。あと、こちらも”さま”はやめてください」

「分かりました、遼。でも、大丈夫ですか?……あなたも疲れているでしょう」

 いきなり呼び捨てか、と一瞬たじろいだが彼女がこう見えて何百歳も年上であることを思い出して一人納得する。

「警察官というのは殊の外タフな生き物ですよ。――シャワーを浴びたいのですが、ヒスイさん、先に入りますか?」

「わたしは遼が社に来る前に身を清めましたので、大丈夫です」

「そうですか、では適当にくつろいでいてください。眠たかったら寝ててもらって構わないので。寝室は隣です」

 寝室の扉を指さしてから洗面所に向かう。


 ――気が休まらない。

 自宅にいながら、他人が同じ空間に存在しているという状況にまるで落ち着けずにいる。

 

 遼自身、かなり神経質な方であるという自覚はあった。

 

 僅かな埃でも気になるし、外から帰ったらまずはシャワーを浴びないと気が済まない。椅子や机が少しズレているだけでも気になってしまうし、物が出しっぱなしになっているのは我慢ならない。

 だからこそ自らの手で完璧にコントロールできるこの自宅は唯一、遼が心から安らげる”聖域”なのだ。

 

 しかし、ここに他者が介在するとなると話は変わる。

 

 実家にいた頃は、姉や父が遼の中での”完璧”をしばしば崩してきた。

 それは仕方のない事だ。

 遼はその度に、再び”完璧”を目指して家事をこなしていた。

 当然それが他者と生活するということだと理解はしている。

 あくまで遼は自分の(ルール)に沿ってやっているだけなのだから、他者にそれを強制するつもりは端からない。

 

 だが、性分というのはなかなか変えられないものだった。


 シャワーのついでに風呂場の掃除をし、鏡を磨いてから出る。

 ドライヤーで髪を乾かした後、洗面台を拭きあげてから居間に戻ると、ヒスイは寝巻きに着替えてはいたがまだ起きていた。

 こちらに背を向けて正座し、何やら横に長い板状の物と格闘している。

 

「ヒスイさん……それは?」

 おずおずと背後から声をかけるとビクッとしてから振り向く。その顔は今にも泣きそうだった。

「あ、遼! わいふぁいが、繋がらないんです!!」

 その手に握られた板は、それ単独でも、テレビに繋いでも遊べるゲーム機だった。

「……もう遅いので寝なさい。明日もやる事が山積みなんです。Wi-Fiは明日繋いで差し上げますから」


 呆れながら不満を漏らすヒスイからゲーム機を取り上げると、(なだ)めすかして寝室にヒスイを押し込む。

 

 ――そのやり取りに、姉の姿を重ねる。

 まだ無事でいてくれているだろうか。

 湧き上がる焦燥感を理性で押さえつけ、眼鏡を外すとソファーに横になる。


 いつもと違う寝床で眠れるか不安だったが、意外にも目を閉じると瞬く間に意識は闇に落ちていく。

 

 ――微睡(まどろ)みの中で、子守唄を聴いた気がする。

 

 誰の声だろうか。

 知っているような、だけど思い出せない。

 懐かしさのような、寂しさのような不思議な温もりに包まれて、不安も、焦燥も唄声に溶けて、遼は柔らかな眠りに墜ちていく。

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