エピローグ 神なき世界 裏
「さあエクトル、返事を聞かせてもらおうかしら?」
たじろぐエクトルの前にニャーラが仁王立ちしている。
ゴンド温泉郷へ帰還して一年ほどが経ってからのこと、ニャーラにワタリビトの社へ呼び出された景真とコハクは、目の前で繰り広げられるやり取りをただ傍観していた。
曰く、「あのヘタレは証人がいないと逃げるかもしれないから」。
「あんたが定命種だからって遠慮してたの、気づいてないとでも思ってたの? だから寿命の心配がなくなった今、こうして私から求婚してるんだから、あんたは黙って首を縦に振りゃいいのよ!」
到底求婚する側の態度とは思えないが、エクトルは顔を真っ赤にして乙女のようにもじもじしている。
「し……しかしですね……僕にも心の準備というものが……」
「……あーもう、じれったいわね!」
ニャーラは喰い気味に言いエクトルの襟首を掴むと、乱暴に引き寄せる。
「人生は短いのよ! ウジウジ悩んでる暇なんか、もうないんだから!」
その言葉にエクトルの顔色が変わる。
それから降参したように両手を挙げた。
「……降参です。結婚しましょう、ニャーラさん」
「最初からそう言やあいいのよ。せいぜい、私を幸せにすることね」
呆れたように言うニャーラに、エクトルが真剣な顔で迫る。
「全身全霊で――幸せにしてみせます」
何かのスイッチが入ったかのようにエクトルがニャーラに顔を寄せる。
「なっ……! 急になんなの……! ちょっと近いから離れて! あいつらも見てるから!」
トマトみたいに真っ赤になって尻尾を爆発させながら逃げるニャーラを見て、景真とコハクが思ったことは一つだった。
「……なぁコハク。俺たちはなぜここに呼ばれて、なにを見せられてるんだ?」
「……わからない」
社に祀られているワタリビトたちもさぞ困惑していることだろう。
ネビュラからアニマが消えた。
これにより社会は大きく混乱し、大きく変化しつつある。
火を起こしたり、未来を視たり。そういった目に見える”奇跡”が消えた。
しかしそれは大きな問題ではなかった。
まず、長命種はその千年にも届く長い寿命を失った。
アニマを失くしたその時から、定命種と同じ速度で成長、老化を始めたのだ。
その動揺は瞬く間に世界中に広がった。
なにせ、まだ数百年あると思っていた人生が突然ほんの数十年まで縮まったのだから。
そして、病気の蔓延。
アニマが失われてから、この世界で初めて癌が発生した。
また、アニマにより抑えられていた疫病が各地で発生し始めた。
病というものがほとんど存在しなかったネビュラでは、医学が一切発展しなかった。
結果、何のことはない感染症で人々は次々と命を落としていったのだ。
ネビュラは女神の加護を失い、あるべき姿へ還った。
一万年停滞していた時は流れ始め、もう留まることはできない。
そしてその責は景真にあり、未だそれが本当に正しい選択だったのかという葛藤に苛まれていた。
きっと死ぬまで背負うだろう。
「――んで」
帰り道、エクトルの腕を掴んだまま歩くニャーラが景真とコハクをじろじろ見ながら言う。
「あんたらはどうするのよ? もう一緒に住んでるんだし、いつでもいいでしょ」
「え……っと、いやぁ、俺たちは……」
一緒に住んでいる。
それは事実だが、コハクの母であるヒスイもいるし立場としては居候に近い。
この世界での生活に馴染むことに必死で、コハクとの関係性については答えを出すことなくここまで来てしまっていた。
「ケーマ。まさかあんたも女からプロポーズさせるようなヘタレじゃないわよね?」
ニャーラは景真を睨み、くるりと顔を振ってエクトルも睨む。
エクトルは両手を挙げて苦笑いするばかりだった。
「言ったでしょ。人生短いんだから、ぼんやりしてるとあっという間にジジババになっちゃうわよ。……まあ、私もこんなことにならなかったら、考えてなかったけどね」
「――私は、いいよ」
吹き抜けた風と同調するようにコハクが呟いた。さりげなく、けれど真剣な声色で。
景真とニャーラとエクトル、三人の目が同時にコハクに向く。
その視線に気づいたコハクは耳を硬直させ、顔を背けた。
その姿が、無性に愛おしかった。
「じゃあ、するか」
結婚、というものがまだ実感を伴わない。
けれど、それが離れ難い相手と決して離れないという契約だと言うのなら、その相手は彼女を置いて他にいない。
――もう、いない。
景真の声にハッと振り向いたコハクの顔は真っ赤で、ニャーラがそれを指差して笑うとまた顔を背けてしまった。
「そろそろ帰ろう。ヒスイさんに頼まれたお揚げも買わないと」
「うん」
呼びかけた景真の元にコハクが駆け寄る。
その様子にニャーラとエクトルは目を見合わせて笑んだ。
帰り道、夕陽が四人の影を長く伸ばしていた。
どこからか漂う夕食の匂い。
野良仕事を終え、酒場へ向かう農夫たちとすれ違う。
視線の先、山を覆うサクラダケの薄桃色が風に揺れる。
遠慮がちにコハクの指が景真の指を掴む。
少し驚いて隣を見ると、彼女は慌てて目を逸らした。
だから思い切ってその手を握り返すと、大きな耳を立てて驚いてからこちらを見て微笑んだ。
いつか終わる旅を始めよう。
この移ろいゆく世界で泡沫の今を歌おう。
いつか来る終わりまで、この手の中の小さな温もりが消えないように。




