第二十九話 表 紅蓮の復讐者
ふらりと前へ踏み出そうとする足を押さえつけ、御堂コトネを睨む。
これは罠だ。
ここからでは生死も不明。
ましてあれが本物の母、一ノ瀬かなたであるという証拠は何一つない。
「”鍵”さえいただければ彼女は用済みです。お返ししましょう。あなたのお父上もきっと喜ばれることでしょう」
「……母は生きているのですか?」
「ええ、近くでお確かめください」
そう言って手のひらでかなたを指し示す。
遼はヒスイと燈に目配せをし、三人で奥の壁に繋がれているかなたの元へ近づいていく。
徐々にその輪郭が明確になる。
その近くに寄り、しゃがみ込んで顔を覗き込む。
頭から垂れ下がる銀髪の向こうに見える横顔は、どこか姉のそれに似ているように思えた。
奇妙としか言いようのない感覚だった。
記憶にないはずの母の顔が、こうも胸を締め付けるとは。
目の奥に生まれるツンとした痛みを堪える。
その白い手首を取り、脈を計る。
確かな温もりと、命の拍動が手に伝わる。
これが、一つ目。
父のために家族を取り戻す。それが姉から引き継いだ遼の目的だ。
だが、これでは足りない。
「姉は……一ノ瀬春華はどこです? あなたは知っているはずだ」
「もちろん。彼女は向こうにいます。こちらへ呼び戻すこともできますよ」
向こう、というのはネビュラのことだろう。
「ならば母と姉、二人をここに揃えてもらう。さもなくば”鍵”は渡せない」
シンプルな交換条件。
あるいは、向こうもこれを飲んでも問題ないと考えているかもしれない。
遼が持つ”鍵”さえ手に入れれば女神の望みは叶ってしまうのだから。
「そうして差し上げても構わないのだけど……ふふ、あなたはそれを差し出すつもりはないのではなくて?」
御堂コトネが妖艶に笑う。
こちらの魂胆など見通していると言わんばかりに。
「私は家族さえ取り戻すことができれば、それで充分です。あとはヒスイさんを、ネビュラに帰してください」
これが二つ目、そして三つ目。
それでも、まだ足りない。
「それも承りましょう。すぐ姉上をこちらへ送るよう手配します」
御堂コトネはこちらの要求を全て飲むと言う。
その腹を探るように確認する。
「ならば……姉をこちら側で解放し、ヒスイさんをネビュラへ送り返す。それが全て終わったら”鍵”をお渡しします。それでいいですね?」
言いながら、自然にその距離を詰めていく。
足りないのは未来だ。
何ものにも縛られない、先の視えぬ未来だ。
だから”鍵”も渡せない。
何一つ、奴らにはくれてやるつもりはない。
御堂コトネが力づくで”鍵”を奪おうとしないのには何かしら理由があるはずだ。
「そうですね。……いえ」
逡巡するように目線を外す。
遼はそれを見てさらに前へ進む。
恐らくアニマの無いこの地球では、その力を十全に振るうことができないのだろう。
それに加えて遼が”鍵”の使い方を理解したという、その可能性も考えているはずだ。
そしてその予想は正しい。
遼はアニマを持つものに触れさえすれば、それをたちどころに崩壊させることができると確信している。
それは女神により創造された使徒と言えど例外ではない。
御堂コトネはそれを恐れている。
しかし、それはあくまでもアニマを持つものに限る。
この世界で雇った手駒を使えば、遼を屈服させることなどわけないだろう。
この広間に教団の私兵がなだれ込んで来るならば、その瞬間に御堂コトネに飛びかかり決着をつける他はない。
「……やはり、まどろっこしいですね」
御堂コトネが気だるげに口を開く。
「あくまで平和的に――と考えていたけれど、早くお母様の喜ばれるお顔が見たいもの」
カツン、チリン。
杖で床を叩き、小さなベルが鳴る。
人を呼ばれた!
それを察した遼は腰を下げ、いつでも駆け出せるよう構える。
――しかし、何も起きなかった。
御堂コトネが怪訝な顔で広間を見渡す。
ドサッ。
広場の左手で土袋を落としたような音がして、全員の視線がそこに集まる。
落ちてきたのは作業着に身を包んだ男の、骸だった。
広場の両端に備えられたキャットウォーク。その上に人影が現れる。
「部下は来ない。全員始末した」
どこまでも悠然と構えていた御堂コトネが初めて揺らぐ。
「ルカス……!」
「ここが貴様の死場所だ、アリエス」
燃えるような赤い髪を揺らし、男が広間に降り立つ。
四十年の、復讐を果たすために。




