第二十六話 表 虎を駆り、狼を呑ませる
一ノ瀬遼の身柄を確保せよ。
警視庁内において、命令ではなくあくまで業務指示の体で出されたそれを受け、高瀬はすぐに遼に連絡を取った。
「……なるほど。これで確信しました。やはり上層部は教団と繋がっているようですね」
思いの外落ち着いた遼の反応に、高瀬は拍子抜けする。
「いやに落ち着いてるな。お前、教団だけじゃなく警察にまで追われる身になったんだぞ」
この事態を予期し、高瀬は自らが契約した携帯回線を遼に渡していた。
現時点で通信の傍受までされるかはわからないが、その可能性も考慮すべきと考えた。
「……いずれこうなる予感はしていました。あなたを巻き込んでしまったことは、本当に申し訳なく思っています」
「いいよ、それは。今更だしな。言っただろ? 春華さんを紹介してくれたらチャラにするって」
高瀬の軽口が今はありがたかった。
「ふ……そうでしたね」
紹介するのは構わないが、高瀬の恋路が上手くいくとは思えなかった。
学生の時分から春華は異性、同性を問わず無数のアプローチを受けていたが、恋人がいる気配を感じたことはなかった。
そう言えば、そんな姉が唯一話題に上げてくる家族以外の異性。それが職場の後輩である明石景真だった。
彼は今、異世界でどうしているだろうか?
春華の手がかりを掴めただろうか。
あるいは、すでに合流していてくれたりはしないだろうか。
空穴が開かない限り連絡が取れないことがもどかしい。
一方で、苔守村でのことを思えばそれを望むことにも恐ろしさがある。
「で、どうするつもりだ?」
「……? 何をですか?」
スマートフォンを耳に押し当てたまま、一人思考に耽っていた遼は高瀬の声で我に帰る。
「だから、警察に追われてる件だよ。富士山麓に行くのは明後日だろ?」
教団の三号施設での出来事から二日が経った。
茉由の怪我は完治していたが、また教団の手が及ぶことを恐れて乾とともに行動し、高瀬が可能な範囲で護衛している。
一方の遼は、ヒスイと燈を連れ乾の車を借りて追手を巻くように都内を転々としていた。
もっともあれ以降教団側に動きは見られず、監視されている気配も感じられなかった。
嵐の前の静けさ。
遼にはそう思えてならなかった。
そして今、警察が教団の手足として動き出した。
つまり、今は教団本体が動きづらい理由があるのではないか。
幹部である北畠の死があったことや、あるいはその執行者が内部の人間――赤髪の男だったことも関係しているかもしれない。
しかし、それだけではなく今教団の人員を動員して遼たちを追う余裕がないと、遼はそう推測している。
「――高瀬さん。考えがあります」
警察の追手を振り切り、富士山麓の六号施設に極力安全に近づくための策。
この状況はそれを成すに、非常に都合がいい。
「……駆虎呑狼の計だな」
遼の説明を聞いた高瀬が一人納得したように呟く。
「……? 三国志ですか? すみません、あまり詳しくないもので」
「そこはスルーしてくれ」
高瀬が咳払いをしてから続ける。
「警察に『一ノ瀬が教団施設にいる』と報告し、同時に匿名で教団側に『警察が複数の教団施設にガサ入れする』とタレこむ。確かに上手くいけば両方の動きを縛れるかもな」
そう、上手くいけば。
ただし、この策を実現するには大きな問題が存在する。
「でもこれ、上層部に止められて終わりじゃないか? 教団とズブズブってのは確定なんだろ?」
その問題点を高瀬は正確に理解していた。
「その通りです。ですので、話が上層部に届く前に現場の人間を動かす必要があります」
「……そいつが俺の役目ってワケか」
「……心苦しいですが、高瀬さんしか頼れません」
「証拠がいるぞ。お前がそこにいるという」
「私の車を今夜中に教団の初号施設近くのパーキングに動かしてください。鍵は乾さんが持っています」
「実行は明日か」
高瀬の声に覚悟が滲む。
「はい。早すぎると上層部に妨害され、遅すぎると人員の動きを縛り切れません」
「……お前、これが成功したとして警察に戻って来れるのかよ」
「どうでしょう。その時は警視庁の近くで定食屋でも開きましょうか。料理には自信があるので」
この状況で柄にもない冗談を言う遼に、高瀬が少したじろぐ。
「欠片も笑えねーが。……まぁ、その時は常連になってやるよ」
「お待ちしてますよ」
通話を終える。
高瀬はこれだけで、自分がすべきことを把握しただろう。
「ヒスイさん、やはり視えませんか」
ビジネスホテルの一室、ベッドに腰掛けて目を閉じるヒスイに問う。
「……はい。二日後の午後から先を視ようとすると……まるでそこで世界が終わってしまったこのように途切れてしまいます」
「わかりました。ありがとうございます。無理はせず休んでいてください」
遼がそう言うと、ヒスイは糸が切れたように後ろに倒れ込みベッドに身を預けた。
それを見た燈が冷蔵庫からプリンを取り出し、プラスチックのスプーンを添えてヒスイの元へと運ぶ。
「……なにしてるんですか」
倒れ込んだまま口を開けて何かを待っているヒスイを燈が呆れ顔で見る。
「食べさせてください。もう腕も動きません」
そう言って再び餌を待つ小鳥のようにあーんと口を開く。
「もう、子供じゃないんですから」
燈は口ではそう言いながら、笑みを浮かべてプリンをヒスイの口へと運ぶ。
ここから先はもう、何の保証もない。
成否も、生死も、一寸先のことすらわからない。
電話の間にすっかり冷めてしまった褐色の液体を見つめる。
熱とともに香りも弱くなってしまったそれは、普段なら決して飲まないインスタントコーヒーだ。
嫌いだから、というわけではない。
単に遼の美学に合わないからで、それ以上の理由も無かった。
黒々としたコーヒーは白いはずのカップの底面を覆い隠し、その味も口にするまでわからない。
恐る恐る口をつける。
苦味と酸味、そしてコーヒー独特の香ばしさが鼻に抜ける。
「……悪くないですね」
そう独りごち、カップをテーブルに置いた。




