第二十六話 裏 出陣前夜 後
開け放たれた窓から夜鳥の声とともに、草の匂いを纏った夜風が室内へ滑り込む。
テーブルの上には空になった料理の包みや酒瓶が乱雑に置かれている。
昼間はニャーラの公都観光に連れ回され、夜は酒場で、という話になった。
しかし「静かな場所で過ごしたい」というコハクの希望で食べ物を買い込み、いわゆる宅飲みという形になったのだった。
「で」
一通り食事を終え、騒ぎ疲れたところに滑り込んだ静寂をニャーラが破る。
胡乱な目をした彼女は、酒がなみなみと注がれたジョッキを手に隣に座るコハクの顔を覗き込む。
「なぁんであんたらが戦争なんかに駆り出されなきゃなんないのよ!」
「ちょっと、ニャーラさん。飲み過ぎですよ」
「うっさいわねぇ! あんたはらまってなさい!」
下戸らしく、酒に口をつけなかったエクトルが慌てて嗜めようとするが、呂律の怪しいニャーラに一喝されすごすごと引き下がる。
「……死ぬかも、しれないのよ……」
ニャーラは俯いて、ボソリと呟く。
きっとそれは、今日一日口にしたくてもできなかった言葉だったのだろう。
そしてこの時もまた、本当に言いたかった言葉は飲み込んだのだった。
「ニャーラ」
コハクがその背に手を置き、子供に言い聞かせるようなトーンで言う。
「大丈夫。私たちは絶対、無事に帰ってくる」
「……”視”たの?」
ニャーラの問いに、コハクは少しの間の後こくりと頷いた。
その尻尾の先が微かに震えるのを景真は見ていた。
「私は……見ようとしても、見えなかった。三日後から先が、真っ黒な霧に包まれてるみたいで、何も。……やっぱり、あんたには敵わないわね」
ニャーラがそう言って自嘲するように微笑む。
「……うん。だから心配することなんてない」
コハクに頭を撫でられ、そのままテーブルに突っ伏すとニャーラは安心したように寝息を立て始めた。
「……それでは、僕たちは退散しますね」
起きる気配のないニャーラの小さな体を背負い、エクトルが立ち上がる。
「泊まってかないのか?」
「宿を取ってあるので。それに、お二人も今夜はゆっくり休んだ方がいい。明日からはそうもいかないでしょうから」
コハクがニャーラの頬をつつくと、その耳がくすぐったそうにひくひくと動く。
「おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
そう言って軽く会釈し、エクトルは家を出る。
その背中が夜闇に溶けるまで見送ってから、景真は隣に立つコハクに言う。
「さっきのあれ、嘘だろ」
「……なんのこと?」
コハクがはぐらかすように答える。
思い返せば、コハクが景真の問いをはぐらかしたのはこれが初めてかもしれない。
「”視えた”ってやつ」
なにも、コハクを問い詰めるつもりなんか毛頭ない。
嘘をついた理由も、痛いほどわかる。
これは感情の確認と、罪の共有だ。
「……何も、視えないの。ニャーラと同じ。ある時点から、真っ黒な壁で阻まれてるみたいに、何も視えない」
「それが三日後――か」
コハクが首肯する。
未来視がアニマによる演算の賜物であるならば、その計算が及ばないような事象が起こる、ということだろうか。
改めて今立っている場所と、選択の重さを思い知る。
二つの世界が、今まさに岐路に立っているのだと。
「……ごめん、ケーマ。役に立てなくて」
コハクの声が揺らぐ。
「役に立つとか立たないとか、俺が今ここにいるのは――コハクのそばにいたいのはそんなの関係ないよ。ただそうしたいと思ったからだ。大体、そんなこと言い出したら俺がコハクの役に立ったこと試しなんてないだろ?」
照れ隠しのつもりで吐いた言葉が自らの図星を突いていて、途端に情けない気持ちになる。
それなのに、考えたことが口をついて出て止まらない。
「それに未来なんて、視えないのが当たり前なんだ。決まってることなんて何一つない。だから俺たちはずっと悩んで迷って、ここまで来たんだ」
言葉にしてから気づく。
自分一人の選択で未来が変わるなどと考えるのは、この上なく傲慢だと。
未来は、無数の人々――いや、無数の生命の意思と選択によって積み上げられていくものなのだ。
ならばそうだ。
このちっぽけな意思の限りにちっぽけな生命を生き、その果ての未来を見届けよう。
それが唯一、与えられた自由だと。
小さく柔らかな手が、星空を見上げる景真のそれを握る。
その温かさを壊してしまわないよう、包み込むように握り返した。
三日後、失ってしまうかもしれない温もりを。




