第二十五話 裏 四百年の邂逅 後
星明かりを映す水面に小さな浮きが揺れる。
夜風が泉を波立たせると、星々は千々に乱れた。
「来たな。アムラス」
釣り糸を垂らし、浮きを見つめたまま全登が言う。
「……その名で呼ばれるのは何百年ぶりかな」
「今ではすっかりアルヴァン二世か。良かったのか? 護衛もつけずに」
「公都は安全だ。この街で不審な輩は、”第三の翼”くらいのものだ」
公爵の皮肉に全登が笑う。
「……ここがヒスイの生家か」
そう言って、公爵は泉を背に佇む家を見上げる。
「ああ。我らが邂逅するに、これ以上ない舞台だろう」
「――そうだな。あの二人はどうした?」
「外してもらった。今頃は酒場だろう」
二人の間に沈黙が横たわる。
「――釣れるか?」
「いや、さっぱりだ。ここの水は清すぎるな」
再び沈黙する。
四百年の時の中から、今伝えるべき一言を探すように。
「――あれから、何があった? お前が私たちの前から姿を消してから」
先に口を開いたのはアルヴァン公だった。
「俺はヒスイを探し、大陸を彷徨った。その旅の果てで出会ったのだ。出会した、と言うべきか」
「出会した?」
「そうだ。女神の翼の、その断片に」
釣竿の先が微かに揺れる。
かかったのは魚ではなく、記憶の中の小さな臍だった。
「奴は俺に祝福を与え、使命を課した。ネビュラの真実と、オービスの未来を見せて。いや、祝福などではないな。これは呪いだ。俺は死を奪われ、生ける屍となった」
公爵が息を呑む。
「……使命とはなんだ?」
「女神を殺すことだ」
全登は躊躇なく言い放った。
「女神を……。なぜ女神の一部である翼がその死を望む?」
公爵にとり、それは容易に受け入れられる言葉ではない。
「女神が人の未来を縛るからだ」
「お前の言う人の未来とはなんだ?」
「平和で、平穏で、発展も衰退もしない、管理された世界。女神はこのネビュラのみならず、オービスすらをもその管理下に置かんとしている」
「……それは真に否定すべきことか?」
「これはあくまで俺個人の信念だ。人の未来は人の意思で紡がれていくべきだと。たとえその先に滅びが待っていようとも、自らの手で選び取るべきだ」
「お前は、お前の世界の神の敬虔な信徒だった。だから女神を受け入れられないだけなのではないか?」
全登はかぶりを振る。
「そうじゃない」
一度針を引き上げ、再び泉へ投げ入れる。
「この世界に来た時、俺は考えた。この世を作った神が、なぜここでは存在しないものとして扱われ、紛い物の神が祀られているのかと」
「女神は実在する。紛い物などではありえん」
「正しく。それこそが俺の出した結論だった。実在するからこそ紛い物なのだ。神とは人が創り、人の中にのみ存在し得るのだと。いや――」
顎に手を当て思案する。
「あるいはORPHENAも、そのようにして始まったのやもしれん」
「ジュスト、お前は神なき世界に何を見る」
「――自由だ」
釣竿を置き、立ち上がる。
「自由に生き、自由に死ぬ。自由に栄え、自由に滅ぶ。留まるものなど何もない。無より出でて、流転し、いずれ無に帰る。それがこの宇宙の摂理だ。生命も、生命なきなきものも、この宇宙そのものすらも」
「摂理から外れた身でぬけぬけと」
「もっともだ。ゆえに、これは俺が摂理に還るための戦いでもある」
公爵が全登の横に立ち、夜空を見上げる。
「……死ぬつもりか」
「とうの昔に死ぬはずだった身だ。……違うな。元々、俺はこの世界にあり得べからざる者だ」
「――俺を止めるか? アムラス」
揺らぐことのなかった全登の言葉が、初めてほんの僅かに揺らいだようだった。
その言葉に、公爵は少し考えてから答える。
「――私は、恐れているのだ。神を失ったこの世界が、導を失った人々が前へと進んでゆけるのか?」
「逆だ」
「逆?」
「神でもなければ、人の歩みは止められんさ」
止まっていた時計のゼンマイが、音もなく巻き直されていく。




