ミノタウロスとテセウス
暴力描写と残酷表現があります。苦手な方はご注意ください。
ここはラビュリントス。
地上と天界との間に浮かぶ無数の異界の一つである。
そんなラビュリントスの主、ミノタウロスは一人の男を見下ろしている。
手錠をかけられ床に転がされているのは顔立ちの良い若い男。
テセウスの生まれ変わりとされる人物である。
※
「久しぶりだなあ、テセウス。何千年ぶりだ? ざっと3500年ぶりってとこか。時の経つのは早えよなあ、テセウス」
「人違いだ。俺はテセウスなんかじゃない。俺は」
ドスッと蹴りが入った。
ミノタウロスの靴のつま先がテセウスのみぞおちにめり込む。
テセウスと呼ばれた男は激しく咳き込んだ。
相手の呼吸が整うのを待ち、ミノタウロスは再び話し始める。
「おまえはテセウスなんだよ。アリアドネがそう言うならそうなんだ。記憶があるとか無いとか関係ねえ。周りが決めるんだよ、自分が何者なのかを。俺とアリアドネがおまえをテセウスと呼ぶ。そしたらおまえはテセウスだってことになる。簡単だろ?」
「ち、違う。そんなのおかしい。間違ってる」
「そうだよなあ、俺も昔はそう思ってた。俺の名前はミノタウロスじゃねえ、周りが間違ってるってな。だけど周り中みんなが俺をあだ名で呼ぶようになって、本当の名前を誰も口にしなくなったら、本当の名前に何の意味がある? 今じゃ誰もが俺の名前はミノタウロスだと思ってる。だったら俺はミノタウロスなんだよ。そしておまえはテセウスだ。周りが決めたらそうなるんだよ。それが真実ってものの一つの側面だ」
「そんな無茶な」
「さて、良い子のテセウスくんに嬉しいお知らせだ。新婚夫婦の住む家が完成したぜ。アリアドネの注文でダイダロスが設計施工した最新の迷宮だ。一度入れば二度と出られない二人っきりの愛の巣だ。ハネムーンにうってつけだろ?」
「なんで、そんな」
「さあ、なんでだろうなあ。前世での行いが悪かったからじゃねえかな?」
「頼む、解放してくれ。金なら」
「優しいご両親がいくらでも払うって? いいねえ、愛されてるねえ。前世でも、現世でも。そういうとこがムカつくんだよ」
今度は顎を蹴り上げた。
のけぞって倒れる相手の髪を掴んで引き起こす。
「親に殴られたことないんだろ? 今時はスパルタ教育ってやらないらしいな。古代のスパルタ人の子育てって知ってるか? 男女関係なく7歳になったら親から離して集団生活、夜は地べたで眠らせて昼は軍事教練だとよ。成長期が終わる頃には野営も行軍も苦にしない屈強な兵隊の出来上がりってわけだ。強くなるわけだよな」
「……それは児童虐待じゃないか」
「そうだよな。まあ俺も殴られるのは好きじゃなかった。俺の親ってのが悪党でな。知ってるか? 神に返さなきゃいけない雄牛をこっそり隠して横領したって話。一国の王がケチ臭い真似したもんだ。母親も色ボケでろくな親じゃなかったが、まあ似合いの夫婦だったんだろうよ。悪い意味でな」
「前世の話か?」
「そう、前世の話だよ。神話の時代のな。あの頃は児童虐待なんて言葉もなくて、子どもは親の私有財産みたいなもんだった。生かすも殺すも家長の自由。ましてや国王ともなれば止めるやつもいやしねえ。色ボケ王妃が生んだ誰の種かも分からん子なんぞ可愛くもなかったんだろう。しょっちゅう殴られてたよ。俺もアリアドネもな」
ミノタウロスは一旦言葉を切った。
相手の髪を掴んでいた手を離す。
「俺は醜い化け物と罵倒され、生まれてきたことが罪だ、男らしく罰を受けろと言われて殴られた。アリアドネは女で綺麗な顔をしてたがやっぱり殴られた。理由なんかいらなかったんだろう。殴りたいから殴ってたんだ。弱い者は強い者に何をされても文句は言えねえ。ガキの頃は俺もまだ弱かった。いつか大きくなったら。そう思ってたんだが親父に先手を打たれた。俺がアリアドネを連れて出ていける年になる前に放り込まれたんだ。迷宮にな」
「迷宮」
「ああ、勘違いするなよ。おまえとアリアドネが入る迷宮とは別物だ。おまえたちのはちゃんと新婚夫婦用の快適設計にしてあるよ。俺が入れられたのはもっと初期型のやつでな。ゆっくり飢え死にさせるための処刑装置みたいなもんだった」
「処刑……」
「非人道的だって言うんだろ? そういう思想のない時代でな。地下に閉じ込めたらそれっきり。水も食べ物も与えない。ほっときゃ死ぬんだから殺す手間もかからない。俺もそうなることを期待された。まさか死なないとは思わなかっただろうな。奇跡的に迷宮の底が天然の洞窟とつながってな。地底湖の魚、トカゲ、サンショウウオ、コウモリでも虫でも食えるものは何でも食った。たまに出口付近に行って、開かない扉を内側からガンガン叩いて叫んでやったよ。俺はここにいるってな」
テセウスの生まれ変わりとされる男は魅入られたようにミノタウロスの話を聞いている。
ミノタウロスは淡々と話し続ける。
「耳障りだったんだろうな。そのうち暗殺者が送り込まれてきた。若くて健康な男が7人、女が7人。合計14人の暗殺部隊だ」
「暗殺? でも神話では」
「生贄だったって? よく考えろよ。なんで生贄が若い男女14人なんだよ。もったいないだろ、いくらでも働ける労働力なのに。餌にするならもっと小さい労働力にならないガキでいいだろうが。その方が肉も柔らかい。まあ、硬くても贅沢は言わねえけど」
「た、食べたのか」
「貴重な食料だろ?」
テセウスの生まれ変わりとされる男は絶句した。
目の前の男が怪物なのだと今初めて気づいたかのように。
「後悔はしてない。生きるためだったからな。悔やまれるのはアリアドネの傍にいてやれなかったことくらいだ。俺が閉じ込められてる間、あいつは一人で殴られてた。暴君の父親、色ボケの母親、兄は怪物になって隔離されて。初めて優しい言葉をかけてくれた男にすがりついて、そいつと手に手を取って逃亡しようとしたって責められないだろ? なあテセウス、俺は思うんだが、男なら駆け落ちした相手を幸せにする責任があるんじゃねえかな?」
「本当に知らないんだ。俺は何も」
「おいおい、もう忘れたのか? さっき丁寧に説明してやっただろ? 記憶のある無しは関係ないって。アリアドネがお前のことをテセウスだって言うんなら、そうなんだよ。身に覚えが無くてもな。おまえはテセウスになるんだ。それが真実だ。わかるだろ?」
コンコン、とドアがノックされた。
「お兄様、テセウス様はここにいるの?」
「いるぞ。入って来いよ、アリアドネ」
「お邪魔するわね。まあ、お兄様」
アリアドネはテセウスに駆け寄り、切れた唇に心配そうに触れた。
「テセウス様に何をしたの? 血が出てるじゃない」
「ちょっとした話し合いだよ」
「んもう、乱暴なんだから。可哀そうにテセウス様」
甲斐甲斐しく手当てをするアリアドネ。
小刻みに震えているテセウスの生まれ変わり。
ミノタウロスはそんな二人を鼻で笑った。
「さっさと式でも披露宴でも済ませてハネムーンに行っちまえ」
「もちろんそうするわ。テセウス様、大丈夫よ、私が守ってあげますからね」
違う、違うんだ、と小さく繰り返す呟きに耳を貸す者はここにはいない。
あの時の私立探偵にも依頼を断られた。
彼を救いに来る者はもういない。
自分で書いておいてこう言うのもなんですが、暴行と虐待の話は読みたくないので、描写を極力抑えて書いてみました。「プリズン・ブレイク」とか「24」とか観てるだけで痛そうって思うし。やりすぎなんだよジャック・バウアー。暴力描写は得意ではないですが、ミノタウロス視点になるとハードボイルド色が漂うみたいです。何でしょうね、このシリアスムード。ミノタウロスというキャラがね、どうしても重たいんですよね、悲劇性を背負ってて。シチュエーションコメディを目指していたはずなのにこの展開。読む人の気分が重くならなきゃいいけど。次回からは軽いノリに戻していきたいと思います。




