アリアドネ再び
ここはヘスペリデスの園とは別の某所。
人間界と天界の間にある無数の異界の一つである。
この異界の名はラビュリントス。
怪物を閉じ込めていたという伝説の迷宮である。
※
高級家具を揃えた豪邸の居間。
パチパチと燃える暖炉、黒い革張りのソファーに体を預けてくつろぐ主。
黒いスーツに包まれたその体は常人より二回りは大きい。
顔は2本の角が生えた雄牛のマスクで隠されている。
その雄牛のマスクの目元を白い手が覆った。
「だーれだ」
「ふざけんじゃねえぞ、アリアドネ。おまえでなかったら叩き殺してた」
「私なんだからいいじゃない」
雄牛のマスクから手を離し、アリアドネはソファーのひじ掛けに腰かけた。
「俺はな、後ろから近づかれるのが嫌いなんだ。後ろから手を伸ばしてくる奴は問答無用で殺すって決めてんだよ」
「お兄様ったら怖ぁい。まあ言ってることは正しいけど。背後から忍び寄ってくるのは十中八九殺し屋だものね」
「いたずら好きな妹を別にすればな」
部屋の主はアリアドネの頬を軽く摘まんだ。
アリアドネはクスクス笑っている。
兄と妹の微笑ましいじゃれ合いに見えなくもない。
雄牛のマスクは異様だが。
「おまえダイダロスに何かやらせてるんじゃなかったか。あの迷宮づくりの名人に」
「うん、迷宮の方は一段落したの。準備ができたから実行に取り掛かるって報告しに来たのよ」
「マジでやんのか、あれ」
「もちろんよ。今度こそ成功させるわよ。スウィート・リベンジ」
「だけど女神の横やりが入ったんだろ」
「女神といっても不和の女神よ。あんなの怖くないわ。オリンポスからは孤立気味の女神なんだし。むしろ私の方がオリンポスの中枢に近いわ。元夫が十二神の一人だもの」
「デュオニュソスか。よく分からん男だが、おまえに気があるのは確かだよな。あいつとよりを戻せばいいじゃねえか」
「いやよ。あんな何考えてるのか分からない男、好みじゃないわ。私はテセウス様が欲しいの。ねえお兄様ぁ~」
アリアドネは兄の膝に縋り付き、甘えるような声を出した。
可愛らしく上目遣いで、両手を組んだ『お願い』ポーズを取る。
「アリアドネの一生のお願い。テセウス様を手に入れるのを手伝って」
「おまえなあ」
雄牛のマスクが呆れたように天を仰ぐ。
「いつまで昔の男にこだわってんだよ。あいつはクズだぞ。おまえをたぶらかして、利用して捨てて逃げたんだぞ?」
「それでも好きなの。あの人じゃなきゃダメなの」
「あの時おまえ何したか忘れたか? あのクズに手を貸して、そのせいで前世の俺は死んだんだぞ? 実の兄を殺した男とおまえは駆け落ちしたんだぞ?」
「悪かったと思ってるわ。お兄様か、テセウス様か、どっちかを選ぶしかなかったの。愛した人を選んでお兄様を死なせてしまった。その罪は生まれ変わっても消えない。それでもお願い、お兄様。私にテセウス様をちょうだい。今度はあの人を迷宮に閉じ込めるの。あの人と二人で罪を償うわ、永遠に」
「おまえがテセウスと一緒に迷宮に入るってか。前世と真逆だな」
雄牛のマスクから乾いた笑いが漏れる。
彼が嘲笑するのは恋に狂った妹か、呪われた前世の自分か。
「いいだろう、アリアドネ。おまえに力を貸してやる。かつてミノアの雄牛と呼ばれたこの俺、ミノタウロスがな!」




