パトロクロスと冥府の渡し守
ここはアケローン川。
冥府の川である。
死者の魂はこの川を船で渡って冥府へと赴く。
渡し船の船頭はその名をカロンと言い、不愛想な老人である。
カロンの船に乗せてもらうには銀貨1枚を支払うか、さもなくば河原を200年さまようしかない。
最終的には無料でも乗せてもらえるのだから、根性入れて200年待っても良いのだが、さすがに長いので銀貨を持っていれば素直に支払うことが多い。
そんな風に素直に料金を支払った魂が、今ここにいた。
※
パトロクロスの魂がカロンの小舟に揺られている。
「乗せてくれてありがとうございます」
「料金を支払ったからには運ぶのが儂の仕事だからな」
「それでもです。本当なら古代ギリシアの1オボロス銀貨じゃないといけないのに、日本の500円硬貨で受け取ってもらえて助かりました」
「一瞬迷ったが、硬貨としての価値があるからな」
「ハハハ…やっぱり日本円で払う魂なんて他にいませんよね」
「日本人なら三途の川を渡るのが一般的だ。ここに来るのはギリシア人が多い。ギリシア人なら昔はオボロス、ちょっと前まではドラクマ、今はユーロで払うのが普通だ。例外的に国外旅行中に死亡した魂が現地通貨で支払うこともある。アメリカの1ドル銀貨で支払われたことは何度かあった」
「1ドル銀貨ですか。僕、見たことないです」
「今時は電子マネーやポイントだからな。だが儂は硬貨が好きだ。紙幣は好かん。カードやスマホで払おうとするやつは地獄に落ちろ」
「地獄に行くにも川の向こうに渡らないといけないんですけど…。僕は500円硬貨があってよかった…」
「どこの間抜けが持たせたか知らんが、話す機会があったら伝えておけ。500円硬貨は銀色をしていても銀貨ではないと」
「わかりました。機会があったら伝えます。ヘスペリデスの園の門番さんに」
「ヘスペリデスか。噂には聞いている。あの姉妹にやられたのか」
「はい。『黄金の林檎をもらいにきました』と言ったとたんに『そうか。では死ね』と。瞬殺でした」
「即死か」
「はい。苦しまずに済みました」
「馬鹿なことをしたもんだ。ヘスペリデスの黄金の林檎を取りに行くなど、死にに行くのと同義だというのに」
「そうですよね。でも上司の命令に逆らえなくて。逆らったら殺されると分かってましたし」
「逆らったら殺される、従ってもヘスペリデスに殺される、か。どうあっても殺される運命じゃないか」
「自分でもついてないなあって思います」
「それで納得してるのか。理不尽への怒りはないのか」
「うーん、あんまりない気がします。前世でも似たような死に方してますし。弓矢で射殺されるか、槍で突き殺されるかの違いだけで。毒や病気で苦しむよりはマシかなって」
「長生きしたかったとは思わんのか?」
「そりゃできることなら長生きしたかったですけど。人にはそれぞれ天命ってものがありますし。若くして非業の死を遂げるのが僕の天命だったと思うんです。いわゆるモブなんですよ、僕は。主人公キャラの友人役なんです。英雄の引き立て役というか。僕が殺されることで主人公キャラが嘆き悲しみ、その悲しみを乗り越えて英雄譚を紡いでいく…といった役割なんです」
「前世はそうだったかもしれないが、生まれ変わったんだろうに」
「生まれ変わっても、僕は僕だったみたいです」
パトロクロスはアハハと屈託なく笑って見せた。
その表情に陰りはない。
「友人を恨む気持ちはないのか?」
「それもないです。アキレウスが悪いわけじゃないし。一緒に遊ぶと楽しいし、いい仲間だったんです」
「だがそいつの引き立て役だったんだろう?」
「まあ格差が大きいなあとは思いましたが。彼は女神の息子だし、『父親よりも優れた息子になる』って予言された生まれながらの英雄だし、不死身チート持ってるし。僕は凡人ですから、差がありすぎて妬む気にもなれなかったんですよ」
「そいつばっかりいい目を見て、自分はあっさり死んでてもか?」
「うーん、そうですねえ……」
向こう岸が近づいてきた。
カロンが小舟を桟橋に寄せ、杭にもやい綱をかける。
パトロクロスは小舟から降りた所で振り向いた。
「カロンさん、僕は僕の運命を後悔してはいないんです。でも一つわだかまりがあるというか、胸に引っかかってることがなくはないんです」
「ほう。それは何だね?」
「アキレウスを悲しませてしまったこと。二度も同じ思いをさせてしまった。僕が死んだりしなければ、あいつは武器を手にすることもなく、楽しく暮らせたのかもしれない。自暴自棄になって、一度は離れた戦場に再び舞い戻って捨て身の大暴れして、それでも心が晴れなくて、怒りと憎しみにとらわれて…。そんなの一度で十分だったのに」
「ほう」
「ハデス様の冥府に着いたら、今度こそきちんとレテ川の水を飲んで記憶を消してもらうことにします。そして次に生まれ変わったらもうアキレウスとは会わない。次の人生ではあいつとは他人になります」
「そうかね」
「ここまで運んでもらってありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて、パトロクロスは歩き出す。
もう振り返らない。
カロンはその遠くなる後ろ姿を見送った。
「悲しませてばかりの友人なら、いない方が相手のためになると思ったか。青いな。お前さんがそうやって身を引いても、英雄の方がお前さんを追っかけてくだろうよ」
渡し守のカロン。
彼が船を出すアケローン(悲嘆)川。
パトロクロスの背中はもう見えない。




