1-8 絶望を砕く二つの声
「やめて……!」
鋭く張りつめた声が、夜の路地を裂いた。
その一言が放たれた瞬間、空気の温度が一変する。
圭介の背筋がびくりと跳ね、無意識に呼吸を止めた。
(これは——)
殺気だった。紛れもない、敵意。
目に見えないそれは、まるで稲妻のように圭介の全身を貫き、足元から頭の先までぞわりと総毛立たせた。
放ったのは、音無恭子。誰よりも冷静で、穏やかで、優しさに満ちた彼女が。
それがいま、むき出しの怒りを乗せた声を上げている。
足元の空気が震えた。彼女の感情に呼応するように、足裏から何かが走る。圧だ。精神的な熱量が、熱波のように周囲に広がっていくのを、圭介は肌で感じた。
「ふふ……怒った顔も悪くないわね、音無恭子さん」
対峙する女、橘がくすりと笑った。音のない笑みだった。唇の端だけがわずかに持ち上がる、挑発と狂気を含んだ笑み。
そのまま、ゆったりと歩を進めてくる。足取りはあくまで悠然。敵意も焦燥も感じさせない。だが、その動きの裏にある確信が、かえって不気味だった。
いつの間にか手に持っていたのは、銀色の注射器だった。細長く鋭い針先が、街灯の光を受けてきらりと光る。それを橘はわざとらしく掲げてみせた。
「心配しないで。ちょっと眠って、目が覚めたら……きっと、今とはまったく違う世界が見えるわ」
声に濁りはなかった。抑揚さえも穏やかで、まるで誰かを優しく諭すような口調。だが、その分だけ底知れない。
注射器の中に何が入っているのか——何をされるのか——想像したくない。
(ダメだ。このままじゃ、捕まる……!)
圭介は震える腕で恭子の手を掴み、立ち上がろうとした。逃げなければ。ここで終わるわけにはいかない。
だが——
「くそっ!」
足元から伸びた蔦が、獲物を逃すまいとばかりに彼の足首へ巻きついた。まるで意志を持っているかのように、びしりと音を立てながら締めつけてくる。
「恭子っ、逃げ——!」
声を張る間もなく、今度は恭子の左右からも蔦が襲いかかる。ひゅん、と空を切る音とともに伸びたそれが、彼女の腕と胴に巻きつき、動きを封じた。
瞬く間に二人は拘束され、地面に縫いとめられる。蔦は冷たく、湿っていて、生き物のように脈打っていた。
必死に引き剥がそうとするが、引っ張れば引っ張るほど、逆に絡みが強まる。力を吸い取られるように、身体が重くなる。
「終わりにしましょうか」
橘の声が、氷のように冷たく響く。
ゆっくりと歩を進めながら、圧をかけてくる。
彼女の周囲の空気が、ねっとりと重くなる。逃げ場など、最初から存在しなかったのではと思わせるほど、包囲は完璧だった。
圭介は歯を食いしばった。自身の無力を噛みしめながら、必死に蔦を引き剥がそうとあがく。だが指が痺れるだけで、何も変わらない。
そのときだった。
雷鳴のような爆音が、路地の奥を揺らした。
次の瞬間、背後のコンクリートの壁が粉砕され、白い粉塵が一斉に舞い上がる。辺り一面、白煙に包まれ、視界が失われる。
「な……!?」
圭介が反射的に目を細め、咄嗟に恭子の身体を庇うようにして振り返った。
崩れた壁の裂け目。その向こう、舞い上がる土煙の中に、ひときわ目立つ赤いスニーカーが姿を見せた。一本の足が、まるで舞台の幕が上がるように現れる。
そして——
女が跳ねた。
土煙を蹴り上げ、颯爽と地面に降り立つ。動作には一切の無駄がなく、むしろ軽やかすぎて現実感を欠いていた。
鮮やかな赤のジャケットがひるがえり、後頭部からのびる長いポニーテールが弾むように空中で踊る。
着地と同時に、彼女は一歩前に出て、くいと顎をあげた。
「——間に合ったみたいね」
凛とした声が、戦場の空気を一変させた。
彼女の目が橘を捉え、にやりと笑う。その挑発的な笑みは、まるで「さあ、ここからが本番よ」と告げているかのようだった。
土煙の中から、さらにもう一つの影が現れる。
背の高い青年だ。寒色のコートを羽織り、全体的に抑えた色合いの装い。それが、かえって彼の冷徹さを際立たせていた。
動きに無駄がなく、手には既に何かの装備が握られている。警戒を怠らぬ目で橘を見据え、その口から発せられた言葉は短く、それでいて重かった。
「状況は把握済み。すぐ終わらせる」
淡々とした口調。しかし、そこに込められた自信と覚悟が、聞く者に安心感を与えた。
橘がわずかに目を細める。
たった二人が現れただけ。だが、その場に満ちていた「支配」の空気が、わずかに軋みはじめるのを彼女も感じ取ったのだ。
優位は崩れはじめていた。