1-7 黒衣の使者、橘梨花
「——走れ!」
圭介の叫びが夕暮れの空気を裂いた。声に振り切るような切迫が宿っていた。
次の瞬間、彼と恭子は踵を返し、交差点を背にして駆け出した。
ざっ、と足音がアスファルトを蹴る。住宅街の道を、夕闇を切り裂くように走る。傾きかけた太陽が伸ばす二人の影は、波打つように揺れ、家々の壁に飲まれていく。
呼吸が乱れる。鼓動がうるさいほどに耳に響く。
“追われている”という非現実的な状況が、皮膚の内側をじわじわと這い上がってきた。悪夢でも見ているような感覚だったが、風を切る感触も、胸に焼きつくような焦燥も、あまりに鮮明すぎて夢とは思えなかった。
「こっち!」
恭子の声に引かれるように、圭介は鋭く曲がる。狭い路地に身を滑り込ませた。
その小道は、人目を避けるには十分だったが、逃げ場も少ない。両側を低い住宅に挟まれ、街灯もまだ灯らない。陰に沈んだような空間に、彼らの影だけが濃く沈んでいく。
「なんで……なんでこんなことに……!」
圭介の喉から漏れた言葉は、叫びにもならず空気に溶けた。
「圭介、止まっちゃダメ!」
恭子の声は震えていたが、それでも真っ直ぐだった。
彼女の隣で、圭介は無理やり自分を前に引きずった。体は悲鳴を上げていたが、それよりも大きな恐怖が背後から迫っていた。
足音が追ってくる。正確に、静かに、まるで何かのリズムに従うように。人の歩幅ではない。どこか滑るような、地面を這うような気配が混じっていた。
「……まだ追ってきてる」
恭子が振り返りざまに呟いた。その声には、絶望に近い確信が滲んでいた。
と、気づいた。
アスファルトの隙間、電柱の根元、金網の影——そこから、何かが這い出してきている。
緑の蔦。しかもただの植物ではない。音もなく、まるで生き物のようにうねりながら、執拗に彼らの逃げ道を潰すように広がってくる。
「……逃げ道を潰されてる!」
圭介は歯を食いしばって、足元の蔦を跳ねるように避けながら角を曲がった。けれど、逃げた先にあったのは——
「ふふ。悪くない反応速度ね」
声が降ってきた。空気に溶け込むような甘さと、背筋を凍らせる冷たさが同居している。
前方、路地の突き当たり。ひとつだけ灯った街灯の下に、女が立っていた。
長い黒髪が風に揺れ、暗がりの中でわずかにきらめく。高い身長に、身体のラインを隠さない黒のパンツスーツ。その立ち姿は完璧に整っており、日常という舞台にまるで馴染んでいなかった。まるで舞台装置のような、現実味を拒絶する気配。
「ご挨拶がまだだったわね。——橘梨花。あなたたちを迎えに来たの」
声は穏やかだった。優しさすら含んでいる。だが、そこに感情はなかった。
目的だけを携えた声。冷徹で、迷いのない、選別者の声だった。
そして彼女は、ゆっくりと片手を持ち上げた。まるで舞台上の演者が、観客の注目を集めるかのような、芝居がかった優雅な動作だった——だが、その直後。
地面が爆ぜるように蔦が跳ね上がる。
瞬く間に路地全体に広がった蔦は、絡み合いながら二人を囲むように動き始めた。まるで生きているかのように。否、それはすでに「攻撃」だった。
「くっ……!」
圭介は足元を取られ、バランスを崩してよろめく。恭子が慌てて彼の腕を支えたが、その顔には恐怖が張りついていた。
「あなたたちは——選ばれた存在。国家のために力を使うの。……少しは誇りに思って?」
橘の声は穏やかさを保ったままだった。しかし、瞳の奥に宿る光だけは、あまりに異質だった。
理性の皮を被った狂気。論理という仮面をかぶった暴力。
静かに笑う橘の背後で、蔦のうねりが加速する。その動きは、美しさすら孕んでいた。だがそれは、花弁が開く瞬間のような「静けさを纏った脅威」だった。
圭介は咄嗟に恭子の手を握りしめた。彼女の手の震えが、迷いなく伝わってくる。
「逃げなきゃ……!」
言葉にするまでもない。
目の前の存在が、自分たちを“道具”としてしか見ていないこと。その選択肢に“拒否”が含まれていないこと。それだけは、もうはっきりと理解していた。
このまま捕まったら、もう普通の生活には戻れない——
それだけは確かだった。