1-6 冷たいまなざし
通い慣れた帰り道を、ふたりは無言のまま歩いていた。
住宅街の道端には、風に揺れる草の匂いが淡く漂っていた。傾きかけた陽が街の輪郭を朱に染め、道に落ちた影だけがゆっくりと伸びていく。
その影を踏むようにして進んでいくと、やがて見えてきたのは、圭介の家の角——交差点の向こうにある、白い塀の一軒家。
いつもならただの見慣れた風景の一部。けれど今、そこには確かに異質な“気配”があった。
「……あれ」
圭介が足を止め、目を細める。
家の前。門のそばに、ふたつの人影が立っていた。
一人はすぐにわかった。彼の母親だ。
グレーのカーディガンを羽織り、手にはエコバッグ。買い物帰りだろうか。けれど、その顔には日常の穏やかさがなかった。唇を固く結び、体の向きこそ変えずに、ほんのわずかに緊張をにじませている。
その母と向かい合って話していたのが——見知らぬ女だった。
長身。抜けるような姿勢の良さが、遠目からでも分かる。
黒のパンツスーツに身を包み、無駄のない所作で母の言葉を受け止めている様子は、どこか“日常”という枠の外にあるように感じられた。
ただのセールスや訪問員ではない。
何かを執行する側の空気。彼女の輪郭だけが、風景に溶け込まずに浮いていた。
「……誰、あれ?」
恭子が、圭介の腕の横でぽつりとつぶやく。
ふたりがそろりと交差点の信号を渡りはじめたとき、女はまだこちらに気づいていないように見えた。けれど——圭介の母は違った。
彼女は、ふとこちらに視線を向けた。
その表情が、ほんの一瞬で強ばる。
目が合った瞬間、彼女は、何かを警告するような微細な動きで首を横に振った。声には出さず、口も動かさない。ただ“来るな”とでも言いたげな視線だった。
その変化を——女は、見逃さなかった。
母の視線をたどるように、女がゆっくりと振り返る。
そして、まっすぐに圭介を捉えた。
ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。
その眼差しには、敵意も怒りもない。
あるのはただ、“目的の対象を見つけた”という確信だけ。感情というものがすっぽりと抜け落ちたような、その視線に圭介は凍りついた。
「……やばい」
思わず漏らした声が、夕暮れの空気に吸い込まれていく。
その瞬間、女の口元がかすかに動いた。
それは笑みとは言えなかった。
ただ“想定通り”とでも言いたげな歪な表情だった。
彼女は、ほんのわずかに頷き——無言のまま、こちらへ歩き出す。
姿勢を崩さず、音も立てずに、一直線に。
あまりに無機質な動きが、かえって不気味だった。
恭子が、かすかに身を寄せてくる。
その肩が震えていた。彼女は何も言わない。ただ、すがるように圭介の袖をつかんだ。
圭介は咄嗟に、彼女の手首を握った。
冷たかった。
どちらの手が震えていたのか、もはや自分でもわからなかった。
目の前の女が、何者かはわからない。
けれど、間違いなく“普通”ではなかった。
——そして、あのメールの差出人と無関係ではない。
そんな直感だけが、頭の奥で警鐘を鳴らしていた。
「……走るぞ」
それは、考えるよりも先に出た言葉だった。
夕暮れの町で、圭介は恭子の手を引き、振り返らずに走り出した。