6-8 Phantom Wisp
わずかに気まずい沈黙が漂っていた部屋の空気を、ひとつの声が突き破る。
「やばい動画出てるよ! マジでやばいやつ!」
突風のように、アリスが駆け込んできた。肩で息をしながら、ノートPCをぎゅっと抱え、その胸元で黄色い花の髪飾りが跳ねた。顔には焦りと、どこか興奮が混ざった色が浮かんでいる。
恭子はすぐに立ち上がった。ソファのクッションが軽く沈んで戻る。
千景も身を乗り出し、瞳を見開く。
「どうしたの?」
恭子が落ち着いた声で問うと、アリスは息を整えもせず答える。
「ネットに今しがたアップされた。たぶん……例の、爆破の犯人」
その言葉に、場の温度が一瞬で下がった。
アリスは息を吐くなり、手慣れた動作で壁際のモニターにパソコンを接続する。彼女の指先がキーボードを滑るように走る。普段の眠たげな様子からは想像もできない集中力だった。
「へえ……手つき、慣れてますね」
千景が小さく呟く。冗談めいた調子ではあるが、その目は真剣だった。何が起こるか予感しているような、妙な静けさを湛えていた。
モニターが切り替わる。画面が漆黒に染まり、空気がすうっと冷たくなった気がした。
やがて、その黒の中心に──青白い光の粒が、ぽつりと灯る。
ふたつ。
火の玉のように、左右対称に現れ、ゆっくりと回転を始めた。それはやがて、火焔を模した幾何学的な紋章へと変貌していく。光の回転が描き出すその図形には、どこか儀式めいた不気味さがあった。
そのとき、スピーカーから低く歪んだ声が響いた。
「──こんばんは、国民の皆さん」
男女の区別もつかない、機械的な声。
それなのに、不思議なことに感情を感じさせる──あるいは、その無機質な感情が不気味さを際立たせていた。
「この国は、“呪い”を与えた。我々の体に、異常な力を刻んだ。普通の人生を壊し、能力という名の枷を押しつけた。正義の名を語り、我々を“道具”として管理した──」
恭子は、その声に喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
胸の内で何かが、ぞわりと波打った。
言葉そのものが鋭利で、しかも真実の一端を突いている。自分のことではないはずなのに、どこかで深く、刺さってくる。
「わたしは、ファントムウィスプ。姿なき断罪者だ」
名乗った瞬間、千景がわずかに眉を動かした。
その瞳には、冗談を言うときの軽さが一切なかった。
「ほとんどの国民は知らない。我々が負わされた代償を。孤独を。抑圧を。奪われた日常を。取り戻せぬ未来を」
声の調子は変わらない。だが、語られる言葉には確かな“熱”が宿っていく。
「三件の爆破。あれは、わたしがやった。誰にも止められなかった。これからも、誰にも止められない。お前たちは察知もできず、恐れるしかない。──そうだ。すでに、他にも“仕掛けてある”。静かなところに、目立つところに、街の中に」
その瞬間、紋章が激しく回転した。火の玉がひときわ強く燃え上がるように。
「次は今日。18時。国道沿いの廃倉庫。見せてやる。破壊が、予告ありでも止められないという事実を」
言葉は淡々と、だが確実に心の内に影を落としてくる。
アリスが唇を噛みしめているのが見えた。
「政府よ。謝罪しろ。我々の命を奪い、未来を損ない、希望を殺した罪を。能力者を“制御可能な道具”として扱ってきたその本音を。全国民に明かし、膝をついて謝れ」
長い沈黙が落ちる。
紋章が回転を止め、ぴたりと静止する。
そして、最後のひと言。
「──良い返事、待ってるよ」
画面が闇に沈んだ。
部屋の空気が凍りついたようだった。
誰もが言葉を失い、動けずにいた。
さきほどまでの平穏は、どこにもなかった。そこにあるのは、現実の脅威。目に見えぬ力が、日常を脅かす“真実の映像”だった。
「……これ、まじで本物っぽいですね」
千景が静かに言った。
軽口に聞こえるが、その表情に笑みはなかった。何かを飲み込み、戦おうとする意思が垣間見えた。
「再生数は、まだ少ない」
アリスが画面に目を落としたまま呟く。
「タグも適当だし回りづらいだろうけど、本当に次の爆破が起きたら拡散されるだろうね」
恭子は、改めて紋章の残像を見つめた。
あれは、ただのテロではない。
力だ。歪んだ信念と、異能を伴った──“本物の敵”。
「ファントムウィスプ、か……変な名前だけど、妙に記憶に残る」
千景がぽつりと言う。
「自分を名乗らず、思想だけを押しつけてくる。顔の見えない正義がいちばん、厄介ですよ」
「そうね……姿のない敵って、一番やっかい」
恭子は、思わず漏らすように言った。
能力を持って生まれたというだけで、どこかで歯車が狂ってしまった誰か。けれどその誰かは、確実に世界に牙を剥いている。
「でも……止めないといけないのよね」
その声は震えていた。けれど、どこかで覚悟をにじませていた。
アリスが何も言わず、パソコンを操作する。
千景は軽く息をついて、口元だけで笑った。
「僕、こういうの見ると……逆に燃えてきました。加入したばっかですけど、ようやく“始まった”って感じがして」
その無垢な意欲に、恭子は一瞬だけ視線を向け、しかし答えずアリスに言った。
「……玲次さんと春香さんにも。圭介にも。すぐに知らせて」
「うん、URL送る」
アリスが頷いた。
世界が動いている。何かが変わり始めている。その渦の中に、自分たちはいる。
誰が仕掛け、どこへ向かうのか──今はまだ、すべてが霧の中だ。だが、ただ一つ確かなこと。
“恐ろしいことが、始まった”。




