6-7 あなたには、関係ないです
八班用の仮部屋に、静かな時間が流れていた。
玲次は浮島にひとまず仮編成とする旨の報告のため席を外し、アリスも事件について泡沫な情報を探るべく、ノートPCを取りに一足先に部屋を出ていた。
残されたのは、音無恭子と、謎の新入り──千景、二人だけだった。
恭子は背筋を伸ばし、窓際の椅子に腰かけていた。
表情には出さないが、どこかぎこちない空気が部屋の中を包んでいた。
「……二人になっちゃいましたね」
静寂を破ったのは、千景の明るい声だった。
その口調は相変わらず柔らかく、どこか無邪気ですらある。
恭子は小さく頷いた。それ以上、言葉を返すつもりはなかった。
千景はそんな反応にも臆することなく、ふわりとした足取りで近づいてくる。まるで何かを観察するような瞳で、恭子の表情をじっと見つめながら、言った。
「どうしたんですか? 何か、悩みでも?」
思わず顔を上げた。
その声はあまりに自然で、それゆえに引っかかる。どこか──内側に踏み込まれたような、そんな気味の悪さがあった。
「……別に、大丈夫だから」
答えながらも、恭子は自分の声のかすかな硬さに気づいていた。
「ふーん。てっきり圭介くんのことかと」
その名を出された瞬間、恭子の肩がぴくりと揺れた。
「……どうして圭介のことを知ってるの?」
「いやいや、ここに配属されることになったから、事前に名簿をチェックしたんですよ。ね、当然でしょ?」
千景は悪びれもせず、にっこりと笑う。
けれどその笑顔は、やはり“整いすぎて”いた。どこか計算された人工物のような、異質な印象を拭えない。
「そういえば春香さんもいませんね。二人で外の任務ですか?」
唐突に話題を変えたかと思えば、今度はさらりと──
「……あれ? もしかして、嫉妬ですか?」
その言葉が落ちた瞬間、恭子の中で何かが、ぷつんと音を立てて切れた。
羞恥。怒り。そして、正体のない不安。
そんな感情が一気に胸の内で沸騰する。
──違う。そうじゃない。
私は嫉妬なんかしていない。圭介と春香が一緒に行動することくらい、当然のことだ。
けれど。
圭介との距離──その複雑な感情の渦を、自分でもうまく整理できていない。
その不安定さに、誰よりも自分が戸惑っていた。
だからこそ、そんなふうに無神経な言葉で踏み込まれるのが、許せなかった。
次の瞬間だった。
恭子の心の奥から、熱のようなものが走り抜けた。
怒りと動揺を孕んだその感情は、意識するより早く、彼女の能力として発動していた。
“共鳴”――心の波が、空気を震わせるように伝わっていく。
千景が、その場でぴたりと動きを止めた。
黒い瞳が一瞬だけ見開かれ、笑みが、ほんのわずかに揺らぐ。
口角が、引きつったように歪んだ。
それはほんの一瞬だったが、確かに“たじろいだ”反応だった。
そして、次に彼が見せたのは、まるで子どもが新しいおもちゃを見つけたかのような、無垢で――だからこそ不気味な笑顔だった。
「……わあ」
千景は、感嘆の吐息とともに声を上げる。
「これが……感情の共鳴ってやつなんですね!」
心から驚き、そして楽しんでいる。
その反応に、恭子の背筋に冷たいものが這い登った。
「怒り、動揺、それに少しだけ恥じらいもあった。すごいなあ……言葉にしなくても、ちゃんと伝わってきた。心がまるごと流れ込んでくる感じ。いやあ、クセになりそうです」
「……あなたに、話すようなことは、ないです」
恭子は唇を震わせながら、なんとか声を搾り出した。
さっきまで胸に滾っていた怒りは、今や恐怖と拒絶に姿を変えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。冗談のつもりだったのに……やっぱり図星だったのかな?」
千景は悪びれる様子もなく笑う。
その笑顔には、どこか空洞のような虚しさと、危うい熱が同居していた。
からかうような調子の千景に、恭子は思わず声を荒げそうになった。
「圭介とは、そんなんじゃないから。適当なこと言わないで」
「怒らせちゃったかな? ごめんなさい。でも……もし何かあったならちゃんと話した方がいいですよ」
ふっと表情を和らげながら、千景は目を細める。
その目は、まるで誰かの最期を見届けてきた者のように、妙に醒めていた。
「人って、いつ死ぬか分からないんだから。後悔しないようにしないと、ね?」
時間が止まったような感覚。
冗談にしては重すぎる。
口調は穏やかだった。けれどそこにあったのは、確かな“死”の気配だった。
恭子は言葉を失った。
喉の奥が詰まり、呼吸が浅くなる。
この少年は──何者なの?
ようやく絞り出した声は、かすれていた。
「……あなたには、関係ないです」
千景はひょいと首をかしげた。
「そうかなあ。……でも、関係ないにしては、ずいぶん反応が大きい気がするけど」
その声は、どこまでも無邪気だった。
だが、恭子の胸の奥に巣くった得体の知れない冷たさは、消えなかった。
千景の目が、ふと細められた。
その瞳の奥に、ごく微かに──狂気にも似た光が見えた気がした。
恭子は息をのむ。背筋をひやりと撫でられるような感覚がした。
この少年には、何かがある。理屈ではない。感覚が、警鐘を鳴らしている。
千景の笑顔が、ほんのわずかに、歪んで見えた。




