6-6 忍び寄る影
朝の光が斜めに差し込むミーティングルームの窓際に、音無恭子は静かに佇んでいた。
低く傾いた陽射しは、わずかに金色を帯びながらガラス越しに射し込み、床の上に柔らかな影を落としている。空気のなかには小さな塵がふわふわと舞い、陽の筋の中でほのかに光っていた。静けさが、まるで古い校舎の朝を思わせる。
天井の空調がかすかに吹き下ろす風が、肩先の髪をそっと揺らした。
まだ夏の余熱がわずかに残ってはいるが、室内はすでに秋の入り口に差しかかったような、穏やかな涼しさがあった。
──そんな空気を切り裂くように、扉が音もなく開いた。
入ってきたのは、諜報班の班長・浮島真一。
相変わらずラフなTシャツにジャケットを羽織り、ぼさついた髪を無造作にかき上げながら、軽く笑みを浮かべる。
「やあやあ、八班のレディたちとクールな班長さん、ごきげんようっと」
その軽口に、恭子は思わず小さく笑った。
真剣な場面でも空気を和らげる──浮島という人間の強さは、そういう“間”を自然に作れるところにある。いざというとき、笑える誰かがそばにいることが、こんなにも救いになるのだと、彼を見ているとよく思う。
「爆発事件について、情報班の谷澤にも聞いたが……あまり収穫はなさそうだな」
玲次の冷静な声が場の空気を引き締める。
恭子はちらりと玲次を見る。微動だにしないその顔は、いつものように無表情だったが、どこか厳しさが増しているようにも見えた。
浮島は肩をすくめ、椅子に浅く腰を下ろす。
「まあな。俺も独自に調べてみたけどさ……困ったことに、ほんとに“何も”分からなかったんだよ」
「何も?」と、アリスが目を丸くする。
まだ完全に目が覚めていないのか、まぶたをしばしばさせながら、眉をひそめた。
「ああ。あれだけ派手に爆発があったってのに、火薬の残留も、発火装置の破片も出てこなかった。普通なら、現場には何かしら“痕跡”が残るもんだろ?」
浮島の語り口に、珍しく硬さが混じっていた。
「街灯にベンチ、ガードレール。全部が、“突然、内側から爆ぜた”みたいな痕跡だった。外から壊された形跡がない。“壊された”んじゃなく、“壊れた”って感じ。まるで物そのものが、意志を持って破裂したみたいな」
その表現が妙に生々しくて、恭子の背中に微かな寒気が走る。
部屋の中に、再び沈黙が落ちる。
恭子はふと視線を横にずらし、アリスの横顔をそっと見た。
膝の上で組んだ手が固く握られたまま、彼女の目はじっと下を向いていた。そのまなざしの奥には、未来の爆発の夢──その記憶がまだくすぶっているように見えた。
「つまりこれは……既存の物理法則では説明できない、何らかの“能力”が関与している可能性が高いってことか」
玲次の声が、沈黙を破った。
「だろうな。俺も、そうとしか思えない」
浮島が神妙な顔でうなずく。
“情報がなさすぎる”という異常。
まるで最初から、痕跡を残す必要すらなかったような。
それは明らかに、誰かの意思が働いている証拠だ。
恭子の中に、じわじわと緊張が広がっていった。
なにかが動き始めている──そう思わずにはいられなかった。
そのとき、浮島がふと目をそらし、少しだけ声を落とした。
「でさ……話変わるんだけどさ、もうひとつ、報告がある」
その言いよどみに、恭子はすぐに気づく。
浮島らしくない“含み”が、声の端に滲んでいた。
「最近うちに、入団希望者がいてさ」
「いいことじゃないか」
玲次が無機質な声で返す。
「いや、それが……ちょっと変わったやつでよ。どうしても“第八班”に入りたいって言い張ってな」
「うちに?」
アリスが小さく首をかしげる。
「ああ。何を聞いても、それしか言わねぇ。──なんか、妙に熱っぽいっていうか……執着してるって感じ? 本部の方針で、配属にあんまり口出しできねぇってのもあってさ、止めようと思ったけど、あんまり押しが強くてついな」
浮島はジャケットの裾を軽く整えながら立ち上がった。
「ま、仮配属ってことで手続き済ませといた。今、八班の仮部屋に案内してる。玲次、あとは頼むわ」
そう言って、浮島はいつものように手をひらひらと振って、部屋をあとにした。
けれどその背中には、どこか後味の悪い余韻が残っていた。
* * *
──八班の仮部屋。
扉を開けた瞬間、恭子は空気の“層”が違うことに気づいた。
ほんのわずかな違和感。温度でも匂いでもない、けれど確実に何かが“異なる”と感じさせる気配。
そこにいたのは、少年だった。
年のころは恭子たちと同じくらい。
黒のジャケットに、短く整えられた髪。立ち姿は柔らかく、けれどどこか演技じみている。見た目に不自然なところはないのに、無意識に警戒心が走る──そんな存在だった。
「こんにちはー。君たちが第八班? やっと会えた。うれしいなあ」
声は明るく、表情も屈託がない。だが──
目が、笑っていなかった。
澄んだ黒の瞳。その奥には、刃のように研がれた“何か”がある。
それはただの興味でも、尊敬でもない。理解でも、共感でもない。
まるで、壊す前にじっくり観察しようとするような、危険な眼差しだった。
「僕、千景って言います。千の景色って書いて“チカゲ”。よろしくね」
アリスがわずかに後ずさる。
玲次は無表情のまま、千景の一挙手一投足を注視していた。
「……どうして、第八班を希望した? うちを選ぶ理由があるとは思えないが」
玲次の問いに、千景は肩をすくめて笑った。
「うーん、直感ってやつかな。君たち、すっごく面白そうだったから」
その瞬間、恭子の背筋にぞわりと寒気が走る。
“面白そう”──命がやり取りされるこの現場を、彼はそう表現した。
「それに……気になる人がいるんだ。あこがれってやつ?」
「誰のこと?」
恭子が無意識に問い返すと、千景はにやりと口角を吊り上げる。
「内緒。恥ずかしいからさ。いつか、機会があれば話すよ」
言葉は軽い。けれど、空気の密度がじわりと重くなる。
玲次はしばらく沈黙したのち、静かに結論を下した。
「──まあ、少なくとも“敵”には見えない。しばらくは仮編成として、様子を見る」
「やった」と声を弾ませ、千景が花のように笑った。
「ありがとう! ちゃんと、第八班で頑張るよ」
その笑顔は、眩しすぎて──不自然だった。
あまりに整っていて、どこか“作り物”のように感じられた。
恭子の中に、言いようのない冷気が這い上がる。
まるで仮面を被った“何か”が、自分たちのなかに入り込んできたような──
嫌な予感が、恭子の胸の奥で静かに、確かに鳴り始めていた。




