5-9 正義の味方、なんだよね?
――ここには、どこにも“平面”がない。
それが、まず拓夢を震えさせた。
囲まれた檻は、四方を金属製の網で編まれていた。
床も壁も天井も、すべてが“格子状”。
つまり、どこにも「次元の扉」は開けない。
彼にとっては、それは単なる檻ではない。
絶対に、逃げられないという意味だった。
彼の能力――“二次元と三次元を繋ぐ扉”は、必ず平らな壁面にしか作れない。
この構造は、その能力を知り尽くした者の設計だ。
完璧な、拘束だった。
「拓夢くん、ねえ……ちょっとは喋ってくれない?」
月嶺霞の声が、檻の外から響いた。
甘い声音だった。だが、その裏にあるものは、子供にも伝わる。
拓夢は黙ったまま、足を抱えてうずくまっていた。
霞はその姿を見下ろしながら、芝居がかった仕草でスカートの裾を揺らした。
黒のドレスは場違いなくらいに華美で、彼女自身の存在を目立たせていた。
「名前、ちゃんと知ってるよ。絵垣拓夢くん。十歳。お母さんとふたり暮らし」
返事はない。拓夢は目を伏せたまま、指先だけを微かに動かしている。
その小さな仕草が、震えなのか、考え事なのか――霞には読めなかった。
「ねえ。怖がらなくていいのに」
霞は笑った。だが、その笑みには、空っぽの音が混じっていた。
芝居がかった声色と、歪んだ優しさ。その両方を同時に使いながら、霞は檻の前でしゃがみ込んだ。
「私ね、あなたの力がうらやましいの。ほんとに、心から」
拓夢は少しだけ顔を上げた。目の奥にあるのは、怯え――だけではない。
怒りか、疑念か。霞には判別できなかったが、彼の幼い瞳は静かに彼女を見ていた。
「壁を“くるり”と回して、世界を超えていくんでしょう? 違う場所に、違う景色に、ひとっ飛び。まるで魔法みたいよね」
霞の声音が一瞬だけ、羨望に染まった。
「私には、そういうの……ないから」
拓夢のまつ毛がぴくりと動く。
「私の能力は、“見えなくなる”だけ。誰にも気づかれないで生きるなんて、最悪よ。ねえ、どう? そんなの、楽しいと思う?」
「……」
「なのに、あなたは……」
霞の手が、檻の金網に触れた。金属がこすれる音が微かに鳴る。
「それだけすごい力を持ってるのに、どうして黙ってるの?」
「使わないよ」
それは、蚊の鳴くような声だった。
でも、まっすぐに刺さるような言葉だった。
霞の笑みが消えた。
「どうして?」
「玲次おにいちゃんが言ってた。……力は、人を助けるために使うもので、傷つけるために使うもんじゃないって」
「ああ、そっか。そっちの人間なんだ」
霞は立ち上がった。足音をわざと響かせながら、檻から離れる。
「正義の味方。……いいね。理想的だわ。ほんとに」
その声には、もう笑みはなかった。
代わりに、鋭い乾いたものが混じっていた。
「でも、じゃあ――こういうときは、どうするの?」
霞が指を鳴らすと、まるで合図のように――横の壁がスライドした。
現れた檻の中に、拓夢と同年代の子供たちが押し込められていた。
手足を縛られ、恐怖に歪んだ目が、揃って拓夢に向く。
霞が檻の間を歩き、彼らの悲鳴を無視するように、ひとりの子の前で立ち止まった。
「あなたが拒むなら、ひとりずつ、この子たちを壊していく。ね、選んでよ。彼らか、あなたの意地か」
「や、やめて……!」
拓夢の声が、初めて大きく響いた。
霞の顔がわずかに崩れた。
(そう。ようやく声が出たね)
それは、ほっとするような、許されるような感覚だった。
でも同時に、苛立ちも押し寄せた。
(この子は、選ばれてる。必要とされてる。……なのに、何が不満なの?)
「私だってね、こんなことしたくないの」
霞は、檻の脇に立てかけてあった警棒を手に取った。
軽い。けれど、手に馴染まない。
だが今、それを手放す理由も、彼女にはなかった。
「でも、やらなきゃいけないのよ。……あなたのせいで」
霞の言葉は、自分自身に向けた呪詛のようだった。
拓夢が何かを言おうと、震える唇を開きかけた。
その隙を、霞は自分の中の衝動で埋めた。
一撃――金属と肉体の音。鈍く、重たい音が室内に響く。
小さな悲鳴。倒れ込む身体。別の子が叫びをあげる。
霞はもう一度、振り下ろした。
そして、また――三度。
回数を重ねるごとに、腕に染みつくのは、確かな“手応え”。
(やってる……本当に、やってる)
拓夢の目が、震えていた。
だがまだ、何かを――信じている目だった。
霞はその視線に、何よりも追い詰められた。
「見てよ。痛いんだよ? 苦しいんだよ? 血、出てるんだよ!」
もう一度叩いた。うめき声。血が床に滲む。
霞の胸が上下する。酸素が、肺に届かない。手が震えているのは、怒りか、恐怖か、自責か。
拓夢が叫んだ。
「やめてっ!!」
霞の手が止まる。
だが、その声は――もう遅かった。
「正義の味方、なんだよね? だったら……守れよ。何か、ひとつでも!!」
その叫びは、悲鳴に近かった。
自分に向けた懇願。あるいは、呪い。
霞の顔が歪んだ。
(恵まれてる癖に、わがまま言わないでよ)
だが、その言葉はもう言えなかった。
彼女の背後から、さらに冷たい声が割って入る。
「それでも……拒否するのね?」
部屋の空気が凍りつくような錯覚。
白いコート。西蓮が、無音のまま傍らに立っていた。
その瞬間、西蓮は懐から何かを取り出した。
小さな拳銃――無駄な装飾もない、冷たく機能的な凶器。
霞の目が見開かれる。
「ちょ――」
西蓮は拓夢から視線を逸らさず、銃をゆっくりと脇に構える。
そして、何も言わず――子供たちの檻に向けて銃口を向けた。
「待っ――!」
霞の制止は、空気に溶けた。
パン。
乾いた銃声が、鉄の部屋を裂いた。
一人の子供が、胸を押さえて倒れ込む。
血が咳きこむように口から溢れた。その瞳は、拓夢の方を向いたまま――二度と瞬きをしなかった。
数秒の静寂。
次に起きたのは、地鳴りのような泣き声だった。
残された子供たちの悲鳴が、空気を裂く。
拓夢はその場に崩れ落ち、手を伸ばそうとして、檻にぶつかる。
「使えない道具はいらないわ。
あなたはどう? 拒否を続けるならあなたも必要ない」
それは命令でも、脅しでもなかった。
ただの事務的な確認。拓夢を「人間」として見ていない目だった。
拓夢は口を開いた。声は震えて、音にならなかった。
だが、やがてわずかに唇が動き、喉から押し出される。
「……やる……やります……」
西蓮は何も言わず、銃を下ろすと、ただ静かに背を向けた。
まるで、今の一発に何の意味もなかったかのように。
その場に倒れ伏した拓夢を見もしない。死体のように扱われた子供の隣を、音もなく通り過ぎていく。
霞は、その背中を無言で見送っていた。
声を出すことも、歩み寄ることもできなかった。
――怖い。
はっきりと、そう思った。
冷たさとか、残酷さとか、そういう言葉では足りない。
目の前の女が持つのは、倫理や情の外にある力。
霞のしてきたことなど、まるで子供の悪戯のように思えるほど、無慈悲で、確実な“線引き”。
けれど、それでも。
月嶺霞は、視線を上げた。
拓夢がこちらを見る。怯えと混乱に塗れた、幼い瞳が。
その視線の前で、霞はふと――口元に笑みを浮かべた。
勝気な笑顔。
まるで自分が全てを仕切ったかのように。
まるで、恐れてなんかいないとでも言いたげに。
喉は乾いていた。指先は震えていた。
けれど彼女は、それを悟られたくなかった。
誰にも。
西蓮にも――自分自身にすら。
「ほらね、言った通りでしょ。……拓夢、いい子じゃない」
乾いた声でそう言いながら、霞は背筋を伸ばした。
その笑みの裏で、心臓の音が――自分の意思とは関係なく、喧しく鳴っていた。




