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《GIFT》―異能力、それは呪いか祝福か―  作者: 甲斐田 笑美
第5章 触れる掌、揺れる未来
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5-8 誤報と真実の境界線

 照明は最小限。空調はかすかな振動すら漏らさず、廊下の奥には、わずかに靄がかかっているような錯覚すら覚える。


 氷川玲次は足を止めた。


 正面に立ちはだかるのは、無骨な鋼鉄の扉。無装飾の金属プレートに〈一班〉の刻印。それだけが、この空間の主を示す唯一の標識だった。けれど玲次の直感は、それ以上の「視線」のようなものを感じ取っていた。まるでこの扉の向こうに、すでに自分の存在が知られているかのような――


 無言でドアノブを握り、押し開ける。


 刹那、空気が変わった。


 温度も湿度も、音の響きも曖昧に溶け合い、輪郭のない空間が視界に広がる。踏み出した足が一瞬、宙に浮いたような錯覚すらあった。人の感覚を狂わせる何かが、この部屋全体を満たしている。


(……“視られてる”感覚だ。ただ、視線じゃない……皮膚の上を、何かが這うような……)


 無意識に頬を撫でた。見えない指先で輪郭をなぞられたような、奇妙なざわめきが残っていた。


「やっぱ来たか。遅かったな」


 不意に声がした。


 一番奥、間接照明の届くギリギリの位置に、男がソファにもたれていた。右手に缶コーヒー。左手をひらりと上げる仕草は気の抜けたようで、だが目だけが笑っていなかった。


 灰色のパーカーに黒のスキニーパンツというラフな格好。ぼさついた前髪の奥から覗く双眸は底が知れない。身を起こすと、細身ながら無駄肉のない長身が現れる。玲次はわずかに警戒を強めた。柔らかさに覆われてはいるが、男の全身からは「実戦の匂い」が滲み出ていた。


「浮島真一、諜報班班長。……お前にわざわざ名乗る必要もないと思うが」


「久しいな」


「はは、こっちは“頻繁に顔を出す職種”じゃないもんでね」


 浮島は肩をすくめて笑った。その声は軽く、それでいて油断の余地は一切なかった。


「でも驚いたよ、氷川。扉を開けた瞬間、ちょっと構えただろ? 堀越の“感触”が伝わったか?」


 玲次は応えず、目線だけで室内を掃いた。視線が止まったのは、部屋の中央――低い平台ベッドの上だった。


 そこに、ひとりの少女が静かに横たわっている。


 無骨な機能美重視の服。髪はうなじで一つに束ねられ、耳元には小型の通信デバイス。二十代前半とおぼしきその顔は眠っているようだったが、呼吸の浅さが物語っていた。これはただの睡眠ではない。


「堀越千里。うちの副班長だ」


 浮島の声は、わずかに柔らかくなる。


「今は“仕事中”。意識を外に出してる。……今、彼女はこの都市の隅々を這いまわってる最中だよ」


 玲次の眉が、かすかに動いた。


「意識を……? どういうことだ」


「五感の分離操作。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚――全部を個別に、遠隔に、同時に動かせる。換気口、配線管、鍵穴……物理的な隙間があれば、入り込めない場所はほぼない」


(認識の常識を覆す……感知を超えて、実体なき“神経”が現実世界を這い回るというのか)


「堀越は、最初からこれを“当然”のようにやってた。脳の構造が、俺たちと違うんだ。処理能力の桁が、別世界ってこと」


「今の彼女は、十以上の神経を並列展開してる。同時に別の街角、屋内、地下構造の異音まで拾ってる。……眠ってるように見えて、実は全感覚が仕事中ってわけ」


 玲次は静かに堀越の横顔を見つめた。


 そのときだった。


 堀越の右手がぴくりと動き、入力デバイスに素早く文字を打ち始めた。

 直後、部屋の端末が自動起動し、スクリーンに一文が浮かび上がる。


 《諜報班の部屋に不審な人物接近。侵入確認。内部記録開始。識別中……》


「……これは」


「彼女が今、感知してる情報のログさ。さっきからこの部屋に向かって不審な人物が近づいていてそれを追ってるらしいが……」


 まさにその瞬間――


 堀越が、ぱちりと目を開けた。

 その瞳が玲次を捉えた瞬間、驚愕と焦りが一気に湧き上がる。


「ひゃっ、ひゃあっ! ご、ご、ごめんなさい! あなた、話に聞いてた氷川さんじゃないですか……!?」


 跳ね起きるように上体を起こし、入力デバイスを連打しながらモニターに向かって叫ぶ。


「消して消して消して! さっきのログ、全部削除! ほんとにすみません! 完全に勘違いで……っ」


 玲次は唖然とその様子を見ていた。

 あれだけ異質な感覚を操っていた少女が、今は完全にテンパった新兵のように見えた。


「さっきの感知……俺のことか?」


「は、はい……足音とか匂いとか、情報少なくて。でも動きが妙に慎重だったから、てっきり……不審者かと……うう、浮島さん、やっぱわたし向いてませんよぉ……!」


「いやいや、無理もないだろ。氷川が本部を離れてから入ったお前が、彼の匂いや足音を識別できるわけないんだから。な?」


「そ、そうですか? ……でも、空西さんに送った情報も、あれ、わたしの判断で……」


 堀越は俯いた。


「……あの件で空西さんが氷川さんに接触したの、わたしの誤報が引き金だったんです。ちゃんと情報班に通せばよかったのに、判断を急いで……本当に、すみません……」


 玲次はふっと息をついた。


「……仲間でよかったよ、本当に」


 その声には、確かな敬意と、微かな安堵がにじんでいた。


 堀越は、それに小さく目を見開いたあと、

 恥ずかしそうに俯いた。


「……ありがとうございます……さっきので匂いは覚えたので、次はもう間違えません……」


 そのとき、浮島がくつろいだまま声を上げた。


「なあ、氷川。諜報ってのはな、結局“間違えた情報”がどれだけあっても、最後に“正しい真実”を引き当てりゃいいんだ」


 氷川が振り返る。浮島は缶コーヒーを持った手を揺らしながら、続ける。


「だから俺たちは、多少のうっかりさんも抱えてやってんだよ。……ただし、結果で黙らせられる奴じゃなきゃ、すぐに埋もれるけどな」


 その一言に、堀越はぴくりと肩をすくめ、

「うう……がんばります……」と、顔を赤くして小声でつぶやいた。


 浮島はそれを聞いて、肩をすくめて笑った。


「そうそう。その調子で頼むよ、副班長さん」


 缶が音を立ててテーブルに置かれる。


 氷川はもう何も言わず、静かに扉へと歩き出した。


 堀越の方を、最後にちらりと振り返り――


 目だけで、何かを告げるように、頷いた。


 そして鋼鉄の扉が、静かに閉じる音が、廊下に吸い込まれていった。

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過去編はこちらから読めます

氷川たちの出会いと「第八班」創設の物語――
『GIFT・はじまりの物語』をぜひお読みください。

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