5-7 論理と感覚の摩擦
――静寂が支配する、情報班のラボ。
機械の駆動音が、呼吸の代わりに響いている。天井の照明は控えめで、硝子の反射も静けさに溶けるように鈍かった。壁一面のモニターは、明滅する情報の波を淡々と送り出し続けている。まるでこの空間そのものが、感情を拒むようだった。
アリスは、端末を操作していた谷澤慧理の正面、数メートル離れた椅子に腰掛けていた。椅子の背もたれに寄りかかるでもなく、姿勢はまっすぐ。膝の上で指を組み、視線を逸らさずに谷澤を見つめていた。
彼女の瞳には、静かな焦りがあった。
「……これまで見た夢のうち、現実にならなかったものは、一つもありません」
囁くように放たれた言葉には、どこか祈るような響きがあった。自分の異能を、宿命を、どうにか信じてほしいと願う声音。
谷澤は、マグカップの縁に触れていた指を止めた。瞳の奥の藍色が、わずかに揺れる。
「……続けて」
アリスは、小さく頷いた。
「場所も、時間も、わかりません。半年以内……それが、私に見えた限界です。でも、確かに感じたの。これは“災厄”だって」
言葉を重ねるたび、胸の奥でざわつく何かを、必死に押さえ込んでいた。夢の中で見た“終わり”の感触が、今も肌の裏に張り付いて離れない。
「見渡す限りの広い空間。空も、地面も、色彩を失ったように濁っていて……現実味がなかった。でも、そこに私たちはいたの。圭介さ、恭子、春香さん、玲次さん……それに、知らない人たちも。みんな、同じ方向を見つめていた。言葉もなく、ただ固まったように」
谷澤は何も言わなかった。ただ、黙って耳を傾けている。
「次の瞬間、目の前の空間が、脈打つように歪んで……空気が、押し返されるみたいな圧力が来て。それから――空間が裂けたの。衝撃、閃光、爆風……身体が吹き飛んで、地面ごと崩れて。誰かの叫びが遠ざかって、わたしも、どうすることもできずに吹き飛ばされて……」
言葉が詰まった。喉の奥が焼けるようだった。
「……痛みも、恐怖も、追いつかなかった。私は、何もできなかった。誰も……守れなかった」
谷澤は、指先をそっと組み、無言でその言葉を受け止めた。
数秒の静寂。アリスの息遣いだけが、微かに空気を揺らしていた。
「――情報としては、不確定要素が多すぎるな」
ようやく発せられた言葉は、冷静を装っていたが、どこか硬さがあった。
「わかっています。でも、だからこそ知らせなきゃいけない。誰もこの未来を知らなければ、何も変わらない。私が見たものを共有して、みんなで備えなきゃ……」
「その“みんな”というのは、君の主観か? あるいは、選定の根拠があるのか?」
「……予知を知っている人間だけが、回避できる。これまでも、そうだった。見た未来は、誰かに伝えたことで変えられた。けれど、知らなかった人たちは……」
アリスは視線を伏せる。
「今回は、あまりにも規模が大きすぎる。でも、それでも……誰にも伝えないわけにはいかない。死ぬかもしれない人たちが、いるんだから」
谷澤は静かにうなずいた。
「本部のすべてを、この災厄ひとつに割り振ることはできない。だが――」
彼はゆっくりと、背筋を伸ばす。
「共有の対象は、私が選定する。本部のリソース内で、可能な範囲で、必要な者にのみ伝える。それが現実的な対応だ」
「……わかりました。それでいい」
アリスは頷き、そこで一度、目を閉じた。
深く息を吐き、そっと瞼を持ち上げる。目の奥に、ためらいを帯びた光が宿っていた。
「でも、ひとつ……最後に、言わなきゃいけないことがあります」
谷澤の手が止まる。
アリスは、谷澤の目をまっすぐ見据えた。
「あなたも、いたんです。あの夢の中に」
谷澤の表情は動かなかった。だが、空気が一瞬、冷えた。
「……巻き込まれていたのは、ただの“本部の人間”じゃない。あなた自身が、衝撃にさらされていた。……私は、情報班のトップに知らせたかっただけじゃない。“あなた”に伝えなきゃ、この未来は変えられない。そう思ったの」
沈黙が落ちる。
谷澤はマグカップからそっと手を離した。手の甲に浮かぶ血管が、無意識の緊張を語っていた。
「……私が?」
「ええ。だからこそ、無関係な災厄じゃない。あなたも、止めるべき当事者の一人だと思います」
谷澤の目が、静かに細められる。
まるで、長い計算式の答えに行き着いた者のように。
「……なるほど。優先順位を見直す必要があるかもしれないな」
その声に熱はない。だが、そこに宿ったわずかな揺らぎは、アリスにとって確かな“兆し”だった。
彼女はゆっくりと椅子を離れ、一礼した。
「……ありがとう。私の話を、ちゃんと聞いてくれて」
「情報を扱う者として当然のことだ」
「でも……感謝します。個人的に」
短い会釈のあと、アリスはラボのドアへ向かった。ドアが開き、冷たい廊下の空気が彼女の黄色い花の髪飾りを揺らす。
谷澤はその背を、最後まで見送った。
そして、誰にも見せることのない静かな嘆息をひとつ、喉の奥で殺した。
その目は、もはやただの記録者のものではなかった。未来に向けて何かを測り始めた、ひとりの戦略家のそれだった。
――災厄の胎動は、すでに始まっている。




