5-6 光と波の癒し
救護班──療養棟。その扉をくぐった瞬間、空気の層が変わったような気がした。
無音ではない。だが、すべての音が距離を置いたように遠く、ぼやけている。靴の音すら吸い込まれ、鼓動だけがやけに響いていた。
恭子は思わず息を浅くする。背筋に走ったひやりとした感触は、温度ではなく、何か“存在しないもの”がそこにあると告げていた。
天井の照明はついていない。かわりに──ふわり、と浮かぶ微光。
暖かな色味の光の粒が、宙に舞うように漂っている。
蛍を模したような、どこか儚げで、それでいて静かな安心感を与える光。
灯野の能力。
恭子はそれだとすぐに察した。あの少女は、“光”の暖かみで癒しを与える。
「いらっしゃい、恭子さん」
声がした。振り返ると、光の奥から浮かび上がるように、灯野が歩み寄ってくる。
十五歳。まだ子どもと言っていい年齢だが、その姿は不思議な“癒し手”の気配を纏っていた。年齢以上に、穏やかで、深くて、時折こちらを包み込むような目をする。
「今日はね、ある人に会ってもらいたいの」
言いながら、灯野は小さく首をかしげて笑った。
その笑みは、ただ無邪気というだけではない。光が持つ包容力のような、見る者の防御を自然に緩めてしまう力があった。
恭子は何も言わず頷き、彼女の後について進む。
案内された部屋。
カーテンが半分だけ閉ざされたその空間には、ひとりの青年がベッドに腰かけていた。おそらく自分たちより四、五歳は年上だろう。けれど──その姿には、年齢よりも“時が止まった”印象のほうが強かった。
背筋を伸ばしているのに、何かが“抜け落ちている”。
重力に抗う意志が見えず、ただ座っているというより、そこに“残ってしまっている”ような存在感だった。
「彼は……最近の現場で、仲間を目の前で失ったの。命令には従った。判断も間違ってなかった。でも──」
灯野の声が、カーテンの向こうで揺れる。
「心が、それを受け入れてくれなかった」
淡々としているようで、その声の奥に、救おうとして届かなかった者たちへの悔しさがにじんでいた。
「いまの彼はね、表面的には会話もできる。でも、感情の層がすごく深くて……わたしの光では、届きにくいところにいるの」
「……それで、私を?」
恭子が問うと、灯野はゆっくり頷いた。
「あなたの“力”は、自分の感情で相手を震わせる力なんでしょ? それって、誰かと“在る”ことを可能にする力だと、私は思う。
彼に必要なのは、たぶん──『治療』じゃなくて、『共にいること』なんだよ」
“癒す”なんて、そんなおこがましいことを自分にできるとは思わない。
けれど、目の前の青年の瞳が向けている先──いや、“向けられていない先”──を見たとき、恭子は小さく息を飲んだ。
空っぽだった。
見ているのに、何も映していない。
まるで、全ての感情が押し流されたあとに残された、冷え切った器のようだった。
視線を逸らしそうになる。けれど、恭子は耐えた。
(……わたしの力は、心を震わせるもの。
それが恐れになったり、傷を深くすることもある。けど──)
けど、それはきっと、悪いことばかりじゃない。
「……失礼します」
恭子は一歩、彼の前に進み出る。そして、そっと、彼の手の甲に自分の手を重ねた。
指先から、何かが静かに流れ出していく。
それは言葉でも、感情でもない。けれど、“伝わる”。
この痛みに、理由なんて要らない。正当性も、弁明も、言い訳も──何も。
ただ、その痛みが確かに“ここにある”ことを、否定しないでいる。
そこに“いる”ことだけを、選ぶ。
ふと、視界の端で灯野の光が揺れた。まるで波紋のように、空気がかすかに震える。
そして──
彼の瞳が、わずかに動いた。
最初は瞬き。
続いて、微かにこちらへと向けられる視線。
その瞳の奥で、ずっと止まっていた何かが、そっと軋んだ。
「……」
口はまだ動かない。けれど、その目は確かに“今ここ”を見ていた。
そして、ゆっくりと──
一筋の、涙。
それは、治癒ではない。再生でも、復活でもない。
でも、確かに“感情が動いた”証だった。
灯野の光が、柔らかく空間を包み込む。
壊れたものを修復するのではなく、壊れてしまった場所に、そっと手を添えるように。
「ありがとう、恭子さん」
灯野の声が、まるで風のように優しく響く。
「その力はね、“壊す”ためのものじゃないよ。ちゃんと、“生き直す”ための力なんだ」
恭子は、青年の手をそっと離した。
その温度は、さっきより少しだけ人間らしかった。
胸の奥で、何かがゆっくりと灯る。
──“戦い”だけが、能力を使う場所じゃない。
この手で、誰かの“止まっていた時間”に触れることもできる。
なら、自分は──
恭子は小さく息を吐いた。青年の視線はもう、自分を見ていた。
完全じゃない。でも確かに、もう、ひとりきりじゃない。
(この力を、私は……誰かの“もう一度”のために使いたい)
療養棟の空気は、相変わらず静かだった。
けれど、その静けさはもう、冷たさではなかった。
それは、灯野の光のように、ほんのりと“誰かがいる”という温度を含んでいた。




