1-4 音なき教室
初夏の陽射しが、斜めに傾いた角度で教室の窓から静かに射し込んでいた。
だがその光は、どこか鈍く、曇りガラスを透かしてきたかのように、輪郭のぼやけた温度を孕んでいた。空気が、目には見えない何かの重みによってわずかに歪んでいるような、そんな圧迫感があった。
昼休み。
いつもなら騒がしさの渦がそこかしこで巻き起こるはずの教室に、妙な静けさが満ちていた。
賑わいは、ないわけではない。ページをめくる紙の音。ペットボトルの蓋がきしむ音。誰かが机をずらすときの、脚が床をこする鈍い音。
そのどれもが、やけに耳に残った。普段なら気にも留めないような小さな音の一つひとつが、空間の静けさによって、まるで何かの“証拠”のように浮き上がっていた。
ざわめきは確かにある。けれどそれは、遠くから風に乗って聞こえてくる、意味を持たないつぶやきのようで、そこに感情の温度はなかった。
笑い声は消え、誰もがあらぬ方向を見ては、ちらと目線を交わす。まるで「何かが起こった」ことだけを察しながら、その中身には触れまいとしている──そんな空気だった。
圭介は、教科書を開いたまま、ペンを持つ手を止める。
隣に座る恭子へと、ほんの一瞬だけ視線を滑らせた。
彼女は、静かだった。
朝から一言も口を開いていない。教科書をめくる手はゆっくりで、指先に力が入っていないのが、遠目にもわかった。
黒板を見つめるその瞳は、しかしどこか焦点が定まらず、ただ空白を追っていた。いや、あれは外を見ているのでも、誰かを見つめているのでもない。──自分の内側を、奥の奥を、見ようとしている目だ。
机に肘をつき、頬にかかる髪を直すこともせず、ただ俯いたまま。
その表情は、言葉にするにはあまりに繊細だった。感情があるようでいて、それがどんな名を持つのか誰にも断言できない。
かすかに寄った眉、わずかに震える唇、胸の奥で滞ったまま出口を失った何かが、彼女をひとつの「沈黙」として、この空間に存在させていた。
「何かあったのか?」
そう問いかけたくて、圭介は何度か口を開きかけた。
けれどそのたびに、胸の奥に薄い膜が張るような感覚にとらわれて、言葉は舌の上で消えた。
彼自身もまた、感じ取っていたのだ。胸の内に生じた小さな異物感。名づけようのない違和感。自分が何に怯えているのか、それすらはっきりしないまま、ただ時間だけが静かに過ぎていく。
そして、気づけばそれは教室全体へと広がっていた。
誰かが、恭子にちらと目をやる。その視線に気づいた別の誰かが、小声で何かを囁く。そうやって、ひとつの“気配”が、言葉にならないまま、濃度を増して教室を包んでいく。
その気配に触れた誰もが、どこか所在なさげに筆記用具を弄び、机に肘をつき、沈黙を埋めるように咳払いをする。
だが、誰も核心には触れようとしなかった。
恭子はその中心にいながら、何も言わず、何も発せず、ただじっとしていた。
その沈黙の重さが、まるで教室全体をひとつの容器に変えたようだった。音を発することすら、どこか許されていないような──そんな、圧倒的な“静の支配”。
天井のファンが、いつもと同じ速度で回っている。
だが、その回転音すら今日はどこか異質に感じられた。乾いた羽音が、静けさを裂くようにして、ゆっくりと──あまりにも無慈悲に──時間を進めていく。
その瞬間瞬間が、鼓膜に染み込んでくるほどに、鮮明だった。
何も起きていないのに、何かが確かに、始まりつつあった。
それを誰もが、言葉にできないまま、ただじっと、見つめていた。