5-2 未来を変えるために
午前の陽射しが、静かに差し込んでいた。
柔らかな白いカーテンが微かに揺れ、窓際の鉢植えに光の粒を落とす。
――穏やかで、あたたかい病室だった。
けれど、アリスの胸の奥に刺さっていたのは、ぬくもりではなかった。
それは、じんわりと沁みるような痛み。春の陽射しに似た、やさしすぎる痛みだった。
彼女はベッドに腰をかけたまま、自分の手を見下ろしていた。
小さな両の手のひら。指先がかすかに震えている。
震えを止めるように、指と指を絡ませる。
ぎゅっと強く。爪が手の甲に食い込むほどに。
怖くないわけじゃなかった。
むしろ、怖くてたまらなかった。
けれど――このまま黙っているほうが、もっと、怖かった。
「……話さなきゃいけないことがあるの」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
けれど、その一言で、空気が変わったのを肌で感じた。
ベッドの周囲にいた仲間たち――圭介、恭子、春香、そして玲次が、一斉に彼女に視線を向けた。
その眼差しが、鋭くも優しく、心の奥をまっすぐに射抜いてくる。
息が詰まりそうになった。でも、もう目を逸らせなかった。
「……夢を見たの。“災厄の夢”を」
言葉を選ぶように、ひとつずつ紡ぐ。
頭の中には、あの悪夢の光景が焼きついていた。
目が覚めても、心臓の鼓動は激しく胸を打ち、汗で濡れたシーツに指を沈めるしかなかった。
「……場所は、わからない。はっきりとは。でも、私の見る夢はいつかどこかで、起こる未来」
彼女の声は震えていた。だが、その震えに嘘はなかった。
聞く者の胸に、微かなざわめきが広がっていく。
「大勢の能力者が巻き込まれてた。私たちみたいな人も、知らない顔も……みんな吹き飛ばされて、誰も、無事じゃなかったの。……いっぱい、死んじゃう」
呼吸が浅くなり、喉がひりつく。
言葉のたびに、夢の残滓が体内を這うように蘇る。
声を絞る。涙を押し込める。
「……半年以内。多分、それくらいの未来だと思うの」
視線を落とす。誰の顔も見られなかった。
伝えなければと思っていたのに、心の奥ではずっとためらっていた。
「白坂が現れたとき……私、取り乱したよね。……あのとき、夢と重なっちゃって……怖かったの。でも……ほんとは、もっと早く言うべきだった」
喉の奥で言葉が詰まり、唇を強く噛む。
いまさら謝っても、何が変わるわけじゃない。けれど、それでも――言わなきゃと思った。
「ごめんなさい。……みんなに言えなかったのは、私が……怖かったから」
ほんの一瞬、声がかすれた。
でも、驚くことに――誰も、責めてこなかった。
その沈黙が、余計に苦しかった。けれど同時に、救われるような気もした。
春香の声が、優しく響く。
「……それ、一人で抱えてたの?」
春香の声が、静かに届いた。
その音色に、アリスは肩を震わせる。
小さく、こくりと頷くことしかできなかった。
その瞬間。
そっと肩に触れる手。恭子の手だった。
柔らかくて、あたたかくて、壊れそうな自分の輪郭を、そっと支えてくれる。
「怖かったね。でも、話してくれて……ありがとう」
アリスは顔を上げた。
恭子の微笑みが、ぼんやりと滲んで見えた。
心が、じわりと溶ける。
震えるように微笑み返して、アリスは、ようやく言葉をつないだ。
「……ありがとう。聞いてくれて」
玲次の低い声が、続いた。
「このタイミングで話すと言う事は、それは……まだ“現実”にはなっていない、ってことだな」
「……うん。白坂が現れたとき、“これだ”って思った。でも、夢で見た光景とは少し違ってた。……だから、まだ起きてない。……止めなきゃいけない」
その言葉を、自分自身に言い聞かせるように告げる。
胸の奥に、微かに灯る確信。
不安や恐怖の、その隙間から、確かに湧いてくるものがある。
「未来は……決まってるわけじゃない。未来を知った人間だけが、止められる。……だから、今、話したの」
部屋が静まりかえる。
でも、もう怖くなかった。この沈黙は、拒絶じゃないとわかったから。
圭介が、ゆっくりと拳を握ったのが見えた。
「……ありがとう、アリス」
その一言で、涙が込み上げた。
赦されたような気がした。
抱きしめられたわけでもないのに、全身をあたためるような優しさがあった。
「その未来は、拓夢が攫われた事にも関係しているかもしれない……なら、絶対に止めなきゃならない」
玲次が窓の向こうを見つめる。
ガラスの向こう、GIFT HOLDERS本部の全景が広がっていた。
研究棟。訓練場。作戦司令室。そこに生きる無数の能力者たち。
誰一人、死なせたくない。……その想いが彼の眼差しに宿っていた。
「……この情報は、上層部にも伝えるべきだ。俺たちの班だけで、対応できる範囲じゃない」
圭介が、すっと立ち上がった。
迷いのない瞳。どこか吹っ切れたような、その姿に、アリスは目を見張った。
「動き出そう。……本気で、未来を変えるために」
アリスは、ゆっくりと微笑んだ。
言えてよかった。受け止めてもらえて、本当によかった。
恭子はそっと目を閉じた。
玲次は静かに頷き、春香は一歩を踏み出す。
そしてアリスは、ようやく思った。
自分は、一人じゃない。
ここに、自分の弱さを見せられる仲間がいる。
共に未来を変えようと、手を伸ばしてくれる人たちが――確かに、いる。
GIFT HOLDERS本部、救護班の病棟。
その白い一室は、悲しみを分かち合い、希望を育てる場所になった。
そして今ここから、新しい戦いが始まる。
誰かを守るために。未来を選び取るために。
彼女は、もう迷わない。
この光の中で、信じ合える仲間と共に――前へ進む。




