4-10 絶対の光、絶望の中に
——空気が、軋んでいた。
それは音というにはあまりに重く、鼓膜ではなく肺腑の奥底に届くような“気配”だった。低くうねるような、金属同士が捻じれあう軋轢……いや、それとも違う。もっと、根源的な。世界の構造そのものが歪められ、熱と光がねじ込まれていくような——抗えない異常。
壁の向こうで、何かが集まっている。目には見えない。だが確かに、光そのものが圧縮され、形を与えられようとしている。
まるで、現実の肌を裏側から剥ぎ取るように。その先端に刃を持たせるように。
誰もが、息を呑んだ。
緊張が、張り詰めた弦のように空間を支配する。その中で、ひとりだけ、異なる反応を見せた者がいた。
アリスだった。
彼女はまるで、見えざる流れの中で糸を手繰るように、瞼を震わせる。そして、ふっと息を呑み、次の瞬間、瞳が見開かれた。
「……視えた」
それは未来の断片。時の歪みの先端に触れた証。
「いま、繋がった。三分後……この壁、壊される。突破されるのは——中央、やや左寄り」
壁の中央、やや左——アリスの指が示した場所に視線が集まる。そこだけ、氷の結晶が細かく散り始めていた。振動が、すでに届いている証だ。
アリスの指がすっと壁を指し示す。その場所に、確かに違和感があった。結晶が微かに弾け、粉雪のような氷片が空中に漂い始めていた。振動——すでに、届いているのだ。
恭子が低く呟く。「三分……その間に、動けるかどうか……」
だが、その言葉を最後まで言い終える暇もなかった。
壁が鳴り、瞬間、氷に亀裂が走る。ひと筋の細い線が、蛇のように這い、すぐさま複数に枝分かれして蜘蛛の巣を描く。白く、脆く、死の兆しのように。
再び、壁の向こうで空気が震えた。
それは“光”そのものだった。圧縮された、純粋なエネルギーとしての光。物理法則すら無視するような、光の暴威。
「撃ち方の間隔が縮んでる……」
圭介の言葉に、アリスが頷いた。
「次は——二十秒後」
時間が削られていく。戦術も、対応も、すべては暴力的な精度の前に摩耗していく。
そして、声が届いた。
「貴様らの策など、虫の足掻きに過ぎぬ」
壁越しに響く声は、まるで玉座より発せられる勅命のようだった。
「我は力そのもの。真正面より叩き伏せ、無力の意味を、その身に刻み込んでやろう」
その口調には怒りも激情もない。ただ冷たく、そしてゆるぎない“王の理”が宿る。
「絶望せよ。抗う意志など愚かなる幻想と知るがいい。地を這い、砕け、膝を折れ。……我が成す未来を、ただ黙って見上げていればよい」
恭子が拳を握る。春香が唇を噛み締める。
だが——誰一人、退かない。
「抗う意味がない? それを決めるのは……お前じゃない」
圭介が一歩、壁の前へと踏み出す。声は静かだったが、研ぎ澄まされた刃のように空気を裂いた。
その一言に、場の空気が一変する。
恭子が頷く。春香は深く息を吸い、構え直した。玲次は後方を振り返り、拓夢の姿を確認すると、低く、仲間にだけ聞こえるように呟いた。
「隙を作る。逃すな」
そして——その瞬間だった。
空間が震えた。
空気が爆ぜ、視界がひっくり返るような感覚。氷の中心が、内側から爆発したように、吹き飛ぶ。
閃光が視界を灼き、地面を這うような衝撃が全身を貫いた。氷片が、鋭利な刃のように弾け飛ぶ。防ごうと展開された氷の盾は、熱に触れた瞬間、蒸気のように溶けて消えた。
誰かの叫びも、破片の衝突音も、全てが閃光の中に呑まれていく。
やがて、風が収まり、光が退いたとき——。
氷壁には、直径三メートルを超える孔が開いていた。
煙の向こう、その中心に、白坂が立っていた。
全身に光を纏っていた。眩く、凄絶なまでに。
その輝きが、肌を、髪を、衣服を輪郭ごと包み込み、まるで神話に登場する光の使者のような幻想を生み出していた。
だが、その眼差しは神のものではなかった。
人を見下ろし、嘲り、断罪する王のそれだった。
玲次が前へ出る。手を突き出し、氷の壁に冷気を注ぎ込む。
だが——再生は、遅すぎた。壁はあまりに大きく抉られすぎていた。このスピードでは亀裂が塞がるのは間に合わない。
白坂の視線が、孔の向こうの全員を射抜く。
「貴様らの愚策を、我はすべて正面から踏み躙ってみせよう」
声は変わらず静かだった。だが、その響きには確かな圧があった。
「そしてその後——貴様自身が『共に行かせてくれ』と懇願しようとも、我は許そう。我は寛大なのだ」
そう語る白坂の身体が、ふわりと宙に浮いた。地面を離れ、無音のまま前傾姿勢をとる。
動き出す寸前の、圧縮されたエネルギーの塊のようだった。
「行くぞ、愚民ども」
空気が撓んだ、その瞬間——。
「玲次さん!」
圭介の声が飛ぶのと、白坂が突進を開始するのは、ほぼ同時だった。
閃光が弾ける。光速に近い加速で白坂が突き進む——が、その肉体は次の瞬間、孔の中で硬直した。
凍結する音。空気が凝結するような鋭い冷気。
白坂の身体が、氷に挟まれていた。
玲次だった。氷の孔の両端を、白坂の突進に合わせるかのような速度で再構成し、瞬間的に挟み込んだのだ。寸分の誤差もない、神業だった。
肉体が止まる。速度が殺される。
光が、空間に裂け目を作るように揺れた。
玲次の額には汗が滲んでいた。両腕は氷柱のように震えている。
限界を超えた冷気の制御。それでも、彼は叫ばない。ただ歯を食いしばり、氷を閉じ続ける。
孔の中心、腰から下の動きを封じられた白坂が、ゆっくりと顔を上げた。
その眼差しには、怒りでも焦りでもない——薄く、愉悦めいた笑みが浮かんでいた。




